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●「Game Player and Game Master」 ・・・辻荘一
●「御神輿ワッショイ」 ・・・辻荘一
●「英語ペラペラ、原書も読めるし、発音もグッ」 ・・・辻荘一
●「私の授業の○と×」 ・・・辻荘一
●「原点に帰る:ユニークさの30年」 ・・・井川好二
●「荘一閑居して教材研究を為す」 ・・・辻荘一
●「『普通』って何や?」 ・・・河野良子
●「自前の美学」 ・・・井川好二
●「異動希望あり」 ・・・辻荘一
●「英語教育に関する若干の疑問点」 ・・・井川好二
●「In process」・・・河野良子
●「お勉強」と「芸」の向こう側 ・・・辻荘一
●「天職と思えば、天職:隠れ家にて」 ・・・井川好二
●「脳内文章作成ソフトウェア」 ・・・辻荘一
●「時間つぶし、時間稼ぎ」 ・・・井川好二
●「巻き込まれること」 ・・・河野良子
●「頭にかぶって! はい、ポーズ!」 ・・・中川房代
●「アフリカン・ドラムを聞きながら考えたこと」 ・・・井川好二
●講演「英語学習の基礎知識」 ・・・井川好二
●「その時」 ・・・辻荘一
●「金太郎と英語」 ・・・井川好二
●「外見と中身」 ・・・井川好二
●「レッツ・エンジョイ・かるた!」 ・・・山田昌子
●「Motivationを考える:日本語教育の場合」 ・・・井川 好二
●「2002年度の初めに」 ・・・佐藤 由美子
●「死生観」 ・・・井川 好二
●「動機が不純」・・・辻 荘一
●「椰子の木に霧が降る:あるいは、南国考」・・・井川 好二
●「OSとSoftwareの親和性について」・・・辻 荘一
●「本読みテスト」のすすめ・・・河野 良子






Game Player and Game Master

辻荘一

 正月といえば、餅つき・羽根つき・双六・福笑いなんてことは今はもちろんなくて、 コタツで携帯ゲーム機をする子供というのが正月の定番の 風景である。 さらに最近はPlay Station 3やNintendo Wiiなどの据え置き型ゲーム機よりもPSP(Play Station Portable)やNintendo DSなどの手元で遊ぶ携帯ゲーム機のほうが人気だ。 しかも一人で遊んでいるかと思えば、近頃は生意気にも通信機能も備えていて友達とやり取りしながらプレーしていたりするから油 断できない。

 私はこういったゲーム機には結構興味があって、とくに正月には子供たちにも触らせてもらったりする。 最近のゲームは非常によく出来ていて、自分が子どもだったら絶対はまると思うのだが、さすがに今はそれ以上入れこんでハマるという事はない。 それは、もちろん自分が大人でそれなりに忙しいこともあるのだが、現実世界のゲームのほうが面白いという感覚があるからかもしれない。

 よく言われる事だが、人生もゲームのみたいなものである。不謹慎だと感じる人もいるかもしれないが、 それは人生を遊びで生きているとか、軽く見ているということではない。 ただ、目的があって環境条件があって、与えられた役割があるという意味ではいわゆるRPG1と似たところがあるということである。

 職場では職場での条件と役割、家庭では家庭での条件と役割がある。 べつのシチュエーションでは別のゲームを別の役割をプレーしていることになる。 例えば、英語教師なら1クラス当たりの生徒数、生徒のレベル、などの条件のもとに、英語教師として如何に振る舞えば、 生徒たちの英語力を上げられるかというゲームであり、子どものいる家庭では、 子供たちを自立した社会人に育て上げるために父親や母親として如何に振る舞うべきかというゲームということになる。

 さらに現実世界がテレビゲームと違うのは自分がゲームのプレーヤになるだけでなく、ゲームをつくる側にもなれるということだ。 教室で行われる英語学習ゲームでは教師がゲームを企画しルールを運用する側で、生徒がゲームのプレーヤである。

さてゲームを作り運用するとはどういうことか。ここで例によってRPGに置けるGame Masterの定義をウィキペディアで調べると・・・

 テーブルトークRPG2におけるゲームマスターは、参加者の1人でありながら、 「ゲームの進行を取り仕切る」という映画の総監督のような役回りになる。 一般的にゲームマスターは、ゲームの筋道を用意し、プレイヤーをまとめつつ、ルールを運用し、ゲームを展開する。 同じゲームの参加者であるプレイヤーと比較すると、「事前の準備」「ゲームの進行」「各プレイヤーへの配慮」等、 その労力は大きい。故に、プレイヤー専門でGMはやらない、という者も少なくはない。
(以下略)

とある。

 以上の定義のゲームを授業、ゲームマスターを教師、参加者を生徒たちに入れ替えると、

 教室内に置ける教師の役割は、「授業の進行を取り仕切る」という映画の総監督のような役回りになる。 一般的に教師は、授業の筋道を用意し、生徒たちをまとめつつ、ルールを運用し、授業を展開する。 生徒と比較すると、「事前の準備」「授業の進行」「各生徒への配慮」等、その労力は大きい。

 となる。この場合教師は生徒たちのような参加者(プレーヤ)ではないが、 人生ゲームの場合自分はプレーヤの一人である事の方が多い。意のままにならない世界で自分の人生を生きているわけだから、 人生ゲームの中では、たとえゲームを仕切る役割になったとしても、多くの場合、 単なる評論家になったり何でも自分勝手に決めて自由に振る舞えることはできない。 そこでゲームマスターの定義を、授業ではなく学年団の会議というゲームに置き換えて考えるこうなる。

 学年会議における学年主任は、担任の1人でありながら、「学年会議を取り仕切る」という映画の総監督のような役回りになる。 一般的に学年主任は、会議の筋道を用意し、担任をまとめつつ、ルールを運用し、議事を進行する。 同じ学年団の担任と比較すると、「事前の準備」「会議の進行」「各担任への配慮」等、その労力は大きい。 故に、担任専門で学年主任はやらない、という者も少なくはない。

 ゲームプレーヤとして決められた事を決められた手順に従ってプレーする方が面白いか、 ゲームマスターとしてゲーム全体や参加者全員を見ながらゲームをする方が面白いかは人によって意見が分かれるところだろう。 ただ少なくともゲームマスターの視点を持ちつつ参加するプレーヤの方が「良きプレーヤ」であることは確かだろう。

 ご存じのようにACROSSでは、会員が単なるプレーヤという立場でいることを許さない団体である。 つまり「プレイヤー専門でGMはやらない、という者」の存在は許されないのである。 初級のメンバーといえども単なるプレーヤではなくACROSSの運営に少しでも関わる事を求められる。 ゲームマスターとしても小さなゲームから徐々に大きなゲームのゲームマスターへ成長する事が求められる。 小さなゲームにせよ、プレーヤに比べてゲームマスターの負担は当然大きい。その報酬はないのだろうか?

 実は、ウィキペディアによるゲームマスターの定義には続きがある。

 故に、プレイヤー専門でGMはやらない、という者も少なくはない。 このような問題を緩和する試みとして、GMにはその労力に見合った報酬 (多くの場合、プレイヤーとなった際に利用できる経験点)が与えられる、というシステムも日本には存在する。

 ACROSSでのゲームマスターの報酬も、その労力に見合った「経験点」である。 その「経験点」が価値あるものだったからこそ、ACROSSは30年以上続いているのである。

  • 1 RPGは、それぞれ独自の世界観とストーリーを持ち、ゲームシステムにキャラクターの成長要素を備えた、 主人公視点の疑似体験型冒険物語を表現するゲームであることが多い。 また、ユーザーの意思をゲームに反映させる部分に反射神経や複雑な操作を必要としないコマンド選択式インターフェイスを 採用しているものが多いのも特徴で、特に日本市場ではこのタイプのものが好まれる傾向がある。 最も多く見られるタイプのコンピュータRPGでは、プレイヤーは一人の主人公とその仲間を操作し、 障害として立ちふさがるモンスターとの戦闘を繰り返しながら「経験値」を蓄積してパワーアップし、 徐々に行動範囲を広げていき最終的に「架空世界の危機を救う」等の目標を達成するというのがおおまかな流れである http://ja.wikipedia.org/wiki/コンピュータRPG    文章に戻る

  • 2 テーブルトークRPG(テーブルトーク・アールピージー)、あるいはテーブルトーク・ロールプレイングゲームとは、 ゲーム機などのコンピューターを使わずに、紙や鉛筆、サイコロなどの道具を用いて、 人間同士の会話とルールブックに記載されたルールに従って遊ぶ”対話型”のロールプレイングゲーム(RPG)を指す言葉である。 TRPG(ティーアールピージー)と略記されることが多い。TTRPG、tRPGなどの略記もある。また、会話型RPGとも呼ばれる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/テーブルトークRPG    文章に戻る








御神輿ワッショイ

辻荘一

 あれはいつのことだったか、中津1さんがこう言ったことがある。

 「ここに集まっている人たちはある意味、過剰な人たちだと思うんですよね。普段の学校の仕事だけでは飽き足りない、なにか他のことをしたいという意志とエネルギーを持っている人たちだと思うんです。」

 さてACROSSとは何だろうか。

 ACROSSは教員研修団体であるという。然り。ACROSSは発音を入り口として様々な技術や理論を提供し英語教師の資質を向上させる組織だ。

 ACROSSは運動体であるという。然り。ACROSSは教師自身が自己変革を遂げることによって日本の英語教育を変えていこうとする運動体だ。

 ACROSSは英語教師の生涯教育を提供する場だという。然り。ACROSSは発音や指導法など個々の技術や理論を学ぶだけでなく全人格的に教師の成長を促そうとする組織だ。

 これらの一般的定義以外にも、参加者それぞれ個人が主観的に捉えているACROSSもある。煮詰まりがちな職場から逃れて自分をリフレッシュしエネルギーを再充填する場所と感じている人もいるだろうし、職場ではなかなか会えない面白い人たちと会えるところだと考えている人もあるだろう。また、何とか恥ずかしくない発音を身につけるまで色々不満はあっても「我慢」して修行する道場だと考えている人もいるかもしれない。

 これらの定義は全て正しい。しかし同時にどれもアクロスの本質を捉えていないようにも思う。そこで新年を迎えて新しい定義を紹介したい。

 ACROSSは神輿である。ACROSSに参加している人は皆神輿を担いでいる。

 ACROSS神輿説が、他の「教師のための研修団体」「日本の英語教育を変える運動体」「生涯教育提供の場」とどこが最も違うかというと、その非日常性に着目している点だ。神輿を毎朝決まった時間に仕事として担ぐ人はいない。神輿を担ぐのは非日常である。非日常性がなくなれば神輿ではない。また神輿は何かを運ぶために担いでいるのではない。担ぐこと自体に意味がある。

 ACROSSの前身である発音研究会が他の様々な英語研修団体や指導法研究会とは違った風合いを持っていたのはその突出した非日常性にあった。中津燎子は「天才」であり、様々な「理論」を提唱しながらもその根本に「非合理性」を抱えたカリスマであった。この非日常的な存在であるカリスマなしには発音研究会もひいてはACROSSも生まれることはなかった。また彼女が生み出した増幅法という発音訓練法もまさに非日常そのものであった。

 発音研究会は創設10年目にして創設者とは別の道を歩むこととなり、名称もACROSSとして再出発した。以来ACROSSの活動は理論化システム化へと大きく舵をきった。これは必然であり唯一の正しい選択であった。その結果ACROSSの活動はより分かりやすく一般的なものになり、その活動範囲は大いに広がった。しかし一方その非日常性を減じるということと裏腹でもあった。

 つまりACROSSは普通の、あるいは平凡な団体に近づいたのである。しかし非日常性を失っては神輿を担ぐことはできない。それを結果的に補ってきたのは、ACROSSへの名称変更以来行われてきた様々なプロジェクトである。iN-PROCESS編纂、アジアツアー、NPO法人の立ち上げ、ECAPなどなど。

 非日常の難しいところは、非日常を継続していると日常になってしまうところだ。入門者にはショッキングな増幅法による発音訓練も長年訓練に携わる者にとっては当たり前のルーティンにしか過ぎない。アジアでの海外研修も韓国との交流も続けていればルーティン化する。

 神輿をルーティンとして担ぐことは出来ない。ルーティン化し合理的に効率よくより遠くまでより速く運ぶことばかりを考えていていると、それはただの運送業である。そしてその非日常性を保証するのは「ご神体」である。

 神輿にはご神体が祭られているものだ。そのご神体はかつて「中津燎子」という天才創設者であったが今はいない。「iN-PROCESS」という「聖典」もあるが、これは書き換え可能である。だから神輿の上に載っているのはご神体でも聖典でもなくその都度決められた「なにかACROSS的なもの」である。

 さて次のご神体は何か。これがACROSS2006年の最重要テーマである。ご神体の選定には、非日常的でみんなで担げるもの、という条件以外何の制約もない。ACROSSという名称を変えてもよい。発音訓練も根本的に考え直してもよい。みんなで担ぐものはみんなで決めるのである。

 神輿はとても重い。担ぐことなんて出来そうもないと思うこともある。ところが意外にも担げてしまったりする。自分にあるとは夢にも思わなかった力がでるのだ。そしてそのままそういうものだと受け入れてワッショイワッショイ担いでしばらくすると、とんでもなく面白くまた大きな喜びがあるものだということに気づく。神輿とはそういうものだ。

 そしてその喜びは中津さんがいみじくも言ったように、日常の多忙さ複雑さに埋もれてしまわず、神輿を担ごうとする精神の「過剰さ」を持っている人にしか味わう権利がないのである。

  • 1中津燎子:「何で英語やるの?」著者。1972年南大阪発音研究会を当時の現職教員と共に組織し、発音訓練を始め、これがACROSSの出発点となった    文章に戻る





実は私も「コンピューターを使いこなしたい。」と思っていた一人です。言われてみればなるほど。何をどうしたいのか、そのために何が足りないのか考えなくては、進歩もないですね。(稲川)



英語ペラペラ、原書も読めるし、発音もグッ

辻荘一

 しかし、なんでこう使いこなしたがるのかね。コンピュータ。コンピュータぐらいできなきゃ、という強迫観念に取り付かれているね、世の中は。しかもコンピュータも「使う」だけじゃなくて、使い「こなさ」ないといけないんだから大変だ。

 でも、「使いこなしたい」なんていう表現を使ってるうちは使えるようにはならないんだな。これが。

 言葉というのは、なかなか思い通りにならないもので、伝えようとする内容が伝わらないことがあるのはもちろん、逆のことが伝わったり、意図していないことが伝わったりすることがママある。本当に厄介なものだが、自分が伝えるつもりのない情報を開示してしまう場合が特に厄介だ。なにしろ本人に自覚がないからね。セクハラ発言なんてものも大概これだ。褒めようとしたり人間関係を滑らかにしようとして、セクハラなんてのが一番多い。ベタな例で言えば、女性のことを褒めるつもりで「女にしておくのは勿体ない」と発言した男は、女性を誉めようとする良き(?)意志とは別に、彼の女性に対する立場を表明してしまっているわけだ。しかも無自覚に。

 「コンピュータを使いこなしたい」という言い方も本人の前向きな姿勢とは別に、話し手のコンピュータに対する無知をさらけ出してしまっているところが悲しい。コンピュータは特定の目的のために作られたものではないから「コンピュータを使いこなしたい」という表現ではほとんど意味をなさないということを理解していない。モニタをコンピュータ本体だと思ったり、タイピングが速いとコンピュータを「使いこなし」ていると思ったりしてるんじゃないかと、疑わせるに十分な発言だ。

 「英語を使いこなしたい」も然り。英語ができると言っても多くの段階があって英語で買い物ができるということと英語でビジネスの交渉が出来たり英語で講義ができたりすると言うことには大きな差がある。これを全く理解していないか、鈍感であるということをみんなに大声で言いふらしているようなものだ。

 同様に英語が話題になるとよく耳にする「あの人は英語がペラペラだ」とか「原書を読む」という表現も、話し手の英語の対する素朴な見方を表している。「あの人は英語がペラペラだ」などと言う人間は、英語を耳にすると「ペラペラ」と聞こえる、つまりほとんど言葉として聞いていないということだ。だから「あの人は英語がペラペラだ」などと発言する英語教師がいたら、すぐに転職を考えて貰わなければならないのだが、幸い私は耳にしたことがない。よかった、よかった。でも、「先生原書、読んではるんですか」という表現は英語教師から聞くことがたまにある。「原書」という言い方からは、「外国で出版された外国語の本。特に、欧文の書籍。」という辞書的意味以外に「自分には手は出せないけど、ありがたいもの」というニュアンスが伝わってくる。欧米からの輸入品を「舶来品」と呼んでありがたがっていたのと同じだ。輸入品がありがたくなくなって舶来品と呼ばなくなったように、英語の本を読むことが特別でなくなれば、原書なんて呼ぶはずもない。「原書」などという言葉を使う教師は「私が英語を読むのは教科書と問題集だけですっ」と宣伝しているようなもんだ。

 当然「英語の発音がいい」ってのも大雑把な表現だ。しかもこれは英語教師でも言うやつがたくさんいる。「いい」って誰と比較して?具体的にどんな発音が「いい」の?とどんどん疑問が出てきてしまう。英語の発音には「いい」と「悪い」しかないと思っていたら、ネイティブスピーカーではない日本人英語教師は発音が「いい」ってことはあり得ないことになる。英語教師ならもっと繊細な見方をしないとね。え?ACROSSでやってるから大丈夫?あ、そうですか。こりゃ申し訳ない。

 「英語ペラペラ、発音もグッ」ではなく、自分の英語力や発音の弱点を具体的分析的に捉えてしかるべき努力をする、英語の本も普通に読む。これが英語教師の生きる道です。






授業を振り返ることは教師にとって不可欠なこと。けれど、その授業を一番よく知っている生徒に意見を求めるのが変革のための早道だと気づいては、いるけれど、なかなかできない。これを読んでそんな自分を変えてみませんか。(稲川)



私の授業の○と×

辻荘一

 自分の授業が良いのか悪いのか、どの点が良くてどの点が悪いのかはなかなか分からないものです。もちろんその道の権威であるDr. EllisやDr. Igawaに授業を見てもらえば一番良いわけですが、なかなかそうもいきません。同僚に見てもらっても社交辞令的な評価になることが考えられます。自分で毎日授業日誌をつけるのも効果があるようですが、とてもそんな余裕はないという人も多いでしょう。

 ひとつのやり方として生徒にアンケートをとるというものがあります。結局授業を一番良く見ているのは授業を受けさせられている生徒自身ですから、生徒による授業評価は、授業の善し悪しが一番よく分かるやり方かもしれません。

 生徒による授業評価は実際にやっている学校もあるようですが、新たに導入しようとすると教師側の抵抗が大きいとも聞きます。教師が反対するのは、授業の評価そのものを拒否するような論外の理由は別として、基準がはっきりしない、評価の結果が管理職によって恣意的に使われる、というような理由があるようです。

 それでは基準をはっきり決めて、管理職とは関係なく自分のために取れば問題ないはずですが、生徒の評価は信用出来ないと考える教師も多いようです。私自身も何回か同僚と生徒による授業評価の可能性について話をしたことがありますが、自分の授業にある程度自信のある教師でも、生徒による評価の妥当性については不安があるようです。「生徒の機嫌ばかりとっている教師の評価がよくなるんじゃないの?」という発言もありました。ただ、私の経験では生徒の評価は全体としては結構妥当なものです。

 私は自分のために授業のアンケートを年に1〜2回取ります。無記名では無責任な回答になることもありますので、記名アンケートにします。ただ生徒は、成績を握っている教師が嫌がることはあまり書かないものです。ですからなるべく正直な評価を引き出すために、少し工夫が要ります。私の場合は、アンケートをとる際に、良いことを書いても悪いことを書いても成績には一切関係しないことを明言した上で、授業の良い点と悪い点をその理由と共に必ず一つ以上書くように求めます。また場合によっては、良い点悪い点両方を書いていない場合は減点すると言うこともあります。

 何年も同じようにやっていますが、こうして取ったアンケートの結果は、いつも妥当なものでした。具体的に書きますと、私の悪い点のNo. 1は毎年、説明の語尾が聞き取りにくいというものです。これは自分でも気付いていて、ある程度は意識しているんですが、なかなか治りません。つぎに悪い点は、目立つ生徒ばかり指名するということです。これは少々意識しても改善されないようなので、来年度からは指名のシステムを変える必要があると考えています。

 もちろんいいことも書いてくれますが、これはとくに参考になりません。注目すべきは、授業中の活動について、「嫌だったけど、役に立ったので良かった」と書く生徒が結構多いことです。生徒も楽をしたいとばかり考えているのではないんですね。

 もうすぐ年度末。無理にやられたり、比較されたりするのは嫌なものですが、自分のために一度、良いことと悪いことを一つずつ書かせるアンケートをやってみたらどうでしょう。少なくともあなたが生徒の意見を聞いて授業を改善しようとしていることは伝わると思いますよ。






今回のNews A 9月号井川先生の稿は、現在行われている、アクロス30周年のまとめに向けて会の根本的な考え方の変遷と課題が述べられています。多くの人が関わってきた30年をまとめるのはたいへんですが、座談会なども開かれ、現在、着々と進んでいます。(稲川)



原点1に帰る:ユニークさの30年

井川好二

 英語教師の研修団体である「ACROSS2」が、「発音研究会」として発足した時代から数えて、30周年を迎えるのは、まことに素晴らしいことであります。まさに、ご同慶3の至り。ひとえに会員のみなさんの弛まぬ自己研鑽への勇気と努力、会員家族・友人のみなさんの力強いご支援のおかげで、ここまでやって来れたと、感謝の念に堪えない次第であります。

 教員の自主研修活動が、30年間もの長い期間続いたと云うこと自体、充分誇りとしてよいことなのですが、その30年の間に、会として数々の自己変革を繰り返し、年々新しい活動にチャレンジし続けてきたことが、ACROSSのユニークさの源泉であり、会員全員の矜持とするところと云えるのではないでしょうか。

 つまり、ACROSSの30年間は、(1)いつも変わらぬ歩みとして、英語教師の「基礎力の養成」を綿々4脈々5と行ってきた部分と、(2)常に新しいチャレンジを繰り返し、試行錯誤を重ねて、英語教師としての「応用力の開発」に携わってきた部分が、車の両輪のように、互いに補いあって行われた教員研修活動であったと云えます。

 思い起こすと、30年前のACROSSは、文字どおり「発音研究会」であり、創始者の中津燎子先生6を中心に、日本人英語教師の英語発音に特化して研修活動を行う団体でした。すなわち、呼吸、アルファベット、単語、単文、ディクテーターの訓練です。現在ACROSSメソードの発音訓練カリキュラムとして定着している「リーディング」も「ドラマ」も、当時はありませんでした。「スピーチ」訓練も、現在の形では存在しませんでした。

 詳しくは、「ACROSS 30年史7」をお読みいただきたいわけですが、要するに、初期のACROSSの活動は、(1)英語教師としての「基礎力の養成」を行う部分のみだったわけです。あるいは、日本人英語教師の自主研修は、それで充分だと、考えていたとも云えます。

 当時のカリキュラムには、アジア・ツアーも海外研修8もECAP9もありませんでした。会員の授業公開も行っていませんでしたし、もちろん、姉妹団体としてのNPO(特定非営利活動法人)「e-dream-s10」も、発足していませんでした。こうした初期のカリキュラムに含まれていなかった部分は、(2)英語教師としての「応用力の開発」に携わる部分であると云えるでしょう。

 そして、この「応用力の開発」のために、多くのプログラムを企画し実行してきたのが、ACROSS30年の歴史であったとも云えます。さらに云えば、英語発音などの「基礎力の養成」のみならず、こうした「応用力の開発」が、日本人およびアジア人英語教師のために、ぜひとも必要な研修活動であると提案し実践してきたのが、ACROSSであったわけです。

 このように研修活動が広がっていく中、1985年、会の名称を「発音研究会」から「ACROSS」に変更しました。「発音」だけが前面にでるのは、会の実態を現していない、と云うわけです。新名称は、The Beatlesの曲「Across the Universe11」からの着想ですが、正式には、The Association of English Teachers for Cross-Cultural Communicationの略で、「ACROSS」です。

 教員研修を、(1)「基礎力の養成」のみから、(2)「応用力の開発」も含んだ(1)+(2)の内容に発展させる中で顕在化し、以降ACROSSにおける研修の基本的考え方として定着した概念の一つは、「Teacher Development」と云う考えです。つまり、「生まれながらの教師は存在せず、教師とは『なる』ものである」 (“Teachers are not born. Teachers are developed.”)とする考え方で、英語ではDevelopment12がその考え方の核となっており、従来から「教員研修」を意味する表現として使われてきた「Teacher Training13」とは、一線を画するものであります。

 どちらかと云うと、「Training」が、「足りないものを補うために、他から与えられる、一過性の訓練研修」を指すのに比して、「Development」は、「教師自身の内部から、必要な能力が自律的に発達することを目指して行われる、永続性の高い研修」であり、「生涯学習」に近い概念だと考えられます。ACROSSの研修全体、特に(2)「応用力開発」の部分は、「Teacher Development」の考えを強く意識してデザインされていますが、(1)の「基礎力養成」の部分は、「Teacher Training」のコンセプトを残したカリキュラムであると云えるでしょう。

 さて、こうしたACROSSが30周年を迎えます。「10年一昔」と云いますから、ACROSS にとって、3つ目の節目の時期。原点に戻って、私たちの活動のユニークさを振り返ってみるには、絶好のタイミングでしょう。

 振り返るべきユニークさの原点は2つ。(1)「基礎力養成」部分のバージョン・アップ。(2)「応用力開発」部分の効率化。そして、(1)と(2)相互補完性の強化。こうした方向性の中から、具体的な方針を見いだしていくことが、ACROSS30周年の主たる課題だと思われます。(Sunday, September 12, 2004)

  • 1げんてん[原点] 基準になる点。特に数学では座標の基準になる点。また,運動の始まった点。origin [新世紀ビジュアル]    文章に戻る
  • 2ACROSSは、コミュニケーションが、語学教育の中心であると考える、英語教員の自主研究グループとして、体系的なカリキュラムを作ってきました。 Non-Nativeの英語教師のための音声トレーニングをスタートとして、ドラマ・スピーチのトレーニング、授業公開、英語教授法の学習、海外研修などの活動をしています。 私たちは、学校という狭い枠にとどまるのではなく、広く世界の文化や情勢に通じる視点をもつ英語教師でありたいと考えます。http://www.aglance.org/across/main.html より。    文章に戻る
  • 3どうけい [同慶] 相手も自分もともに喜ばしいこと。congratulations「御-の至り」[新世紀ビジュアル]    文章に戻る
  • 4めんめん [綿綿] 〔タル〕長く続いて絶えないこと。continuous; unceasing「-として尽きない」[新世紀ビジュアル]    文章に戻る
  • 5みゃくみゃく [脈脈] 〔タル〕続いて絶えないようす。continuous [新世紀ビジュアル]    文章に戻る
  • 61925年福岡市に出生。3才で、日本領事館で通訳として勤務する父に連れられて旧ソ連領のウラヂオストック市に渡る。1936年、日本に帰国。戦後、1956年渡米。結婚し2児を連れて1965年帰国。以降、英語塾を開き、東京・大阪・九州で異文化対応と発音訓練を教えて現在に至る。http://www.roots-int.com/S-T/4/nakatsu.html より。    文章に戻る
  • 7鋭意執筆中、近日刊。乞うご期待。    文章に戻る
  • 8英語教師のための海外研修といえばアメリカ、イギリスが定番ですが、英語圏ばかりに目を向けていていいのでしょうか? ACROSSの海外研修はアジアからスタートしました。まずアジアの一員としての自分を知ることが必要と考えたからです。 アメリカ、イギリスでの合宿に加え、これまでに10回のアジアツアーを実施しました。http://www.aglance.org/across/abroad.html より。    文章に戻る
  • 9ECAPとは、日本の教師が、アジア・太平洋地域において、現地の先生方と一緒に、相互理解を深めるための教材を作成するプロジェクトです。その記念すべき第一歩であるECAP 2003 Koreaは、2003年8月、韓国において実施されました。その成果は日本万国博覧会記念協会の助成を受けて、2004年4月に初の日英韓国語版テキスト”A Rainbow Over The Strait“ として発行されました。本年度のECAP 2004 KOREAは、テキストの更なる充実を図って、新たなテーマに日韓の教師が取り組みます。 http://www.aglance.org/across/korea.html より。    文章に戻る
  • 10e-dream-sは、グローバル化と情報化の急速な進行によって大きく変貌を遂げようとする21世紀の社会において、教育がその重要性をますます高め、新しい教育理念の構築が求められ、教育内容とその伝達方法の再定義が緊急の課題となると考えます。そして、この目的の実現に向けて、社会的、国際的に広く認知される団体として、活動の基盤を充実させるために、特定非営利活動法人を設立するものです。http://www.e-dream-s.org/frame09.html より。    文章に戻る
  • 111969年発売のアルバム「Let It Be」より。Words are flowing out like endless rain into a paper cup, They slither wildly as they slip away across the universe / Pools of sorrow, waves of joy are drifting through my opened mind, Possessing and caressing me. Jai guru deva om     文章に戻る
  • 12de・vel・op・ment 〔名〕〔U〕1発達,発展,成長,発育,進化 ・the 〜 of one's talents才能を発達させること ・ moral and physical 〜 心身の発達. [プログレッシブ英和中辞典第3版 提供:JapanKnowledge]     文章に戻る
  • 13train・ing 〔名〕〔U〕1(…の)訓練,(実施)教育,しつけ,養成,仕込み,トレーニング《in》...;(馬などの)調教.→EXERCISE〔類語〕・academic [military] 〜 学校[軍事]教育・on-the-job 〜実地訓練,実習・go into 〜練習を始める. [プログレッシブ英和中辞典第3版 提供:JapanKnowledge]    文章に戻る





英語教師になって私も20年以上たつけれど、授業の事を考えている時は、時間を忘れますね。それにしても、辻先生は授業のことしか考えることがないなんてうらやましい限りです。でもそんな風に言える私達英語教師もやっぱり幸せなんですね。(稲川)



荘一閑居して教材研究を為す

辻 荘一

 本年度は私は英語教師であります。去年は教師(英語)だったのだが、今年は英語教師でなんであります。職場環境が変わって、授業成立のためのエネルギー、分掌における責任、職員会議での発言などが大幅に減少し、もちろん担任もないので、その分授業準備に割く時間とエネルギーが増えることになった。要するに空き時間は授業のことを考えるぐらいしかやることがないのである。

 さらに働きながらも研修をしていると言う立場なので、他の先生の授業もどんどん見学させていただいている。これだけ英語とその教え方のことを考えているのは新任のころ以来である1 。もともと英語教師なんだから、授業のことを第一に考えるなんて当たり前といえば当たり前なのだが、これが当たり前でないのが今の日本の教育の現実である。

 しかし20年以上も英語を教えてきた、しかも怠けていたわけでもない教師が、前任校とさしてレベルも違わない生徒に教えるのに、教え方をああでもないこうでもうないと考えるというのは面白いことである。普通、どんな教科にせよ教える内容も生徒も変わらないなら、20年もすれば教え方は確立して当然ではないか。

 さて、今は教育実習生の季節である。勤務校にも実習生がたくさん来ている。同じようなグレーのスーツを着て十数名もひしめいているので、そこだけ職員室が暗いような気がするぐらいだ。ただ英語の実習生がいないのはちょっと残念。

 先日数学の教育実習生(男)の研究授業を見に行った。研究授業そのものや実習生の教え方は良い部類に入るもので、声もよく出ていたし、説明も明瞭。板書もきちんと分かりやすく書けていたし、時々は生徒にも答えさせて、メリハリもある。生徒も全体的にはよく集中していた。もちろん語り口がちょっと固いとか、もっと生徒の様子をよく観察して退屈そうな顔をしている生徒やよそ見をしている生徒に声をかけたほうがいいとかは感じたが、経験の浅い実習生にそこまで求めるのは酷だろう。

 さてその結構よかった数学の授業を見て私が感じたのが「英語教師で幸せ」という感想である。数学は(門外漢なので「おそらく」という限定付きではあるが)結局教えるべきことを教師がよく理解し、それを生徒に分かりやすく提示し、練習させるということにつきる。もちろん経験を積めば、語り口や生徒とのやり取りなどはどんどん磨かれていくし、味のある授業になって行くだろうが、本質的には「分かりやすく説明して練習」に尽きる。それは、今までもそうだったろうしこれからも同じだろう。

 もし教科の教授法というものがそれだけならば、知っていること(あるいはできること)と教えることの距離は近い。私には数学の知識能力が決定的に不足しているので数学教師が務まるとは思わないが、自分によく分かっている分野(例えば、2次方程式の解法など)ならば、準備さえすれば数学教師とさほど遜色なく教えられるように思う。そして20年後も同じ教え方をしているだろう。

 ここで私が言いたいのは数学の教授法に変化がないということではない。教科特性というものもあるから一概に批判することはできない。私が言いたいのは、英語は知っていることと教えることの距離が遠いということである。

 それは、英語の力が絶対的に不足している教師や、受験英語にしか興味のない教師は論外として、英語の力もあり本当の意味での英語を教えようとする意志もあったとしても、そう簡単には行かないということである。楽しく、生徒の英語の力につながる授業をするためには満たさなければならない条件があまりにも多い。効果的な授業をするには様々な仕掛けが必要だ。生徒の動機づけ2 、4技能のバランス3 、ゲーム感覚4 、活動のバラエティ5 、など要素を考え、目の前のいる生徒にあわせて提示しなければならない。

 そんなことが、いつでもどんな生徒に対してもできるようになるにはいったいどのぐらい経験を積めばいいのか。知っていることと教えることの距離を埋めるためには20年でもまだ足りないのは当たり前である。20年教えた後でも毎日発見がある。かくして、毎日楽しく教材研究ということになっているのである。そして、自分が英語教師であることを幸せに思うのである。

  • 1もちろん去年までも英語の授業はしていたし、そこそこ評判も良かったので、よろしく。     文章に戻る
  • 2教師のやる気満々は、学生に感染します。井川好二(2003)「Motivationを考える:日本語教育の場合」News A     文章に戻る
  • 3読む、聞く、話す、書くと言う四技能の全てが、少しづつ、毎時間含まれている事が大切。井川好二(2003)「Motivationを考える:日本語教育の場合」NewsA     文章に戻る
  • 4授業で行う学習活動には、ゲーム感覚が大切です。井川好二(2003)「Motivationを考える:日本語教育の場合」NewsA     文章に戻る
  • 5ベテラン教師はレパートリーが広い。語学教師の目指すべきは、行列ができるラーメン屋さんではなく、必要なものが何でも揃うデパ地下です。いくら美味いラーメンでも、毎日毎日では飽きてしまいますが、デパ地下のテイクアウトなら、パスタから鰻重まで、造りたてのいろんな食べものを、その日の気分に合わせて楽しめます。井川好二(2003)「Motivationを考える:日本語教育の場合」NewsA     文章に戻る





河野さんのエッセイの題名はいつもわかりやすいですね。しかし、簡単そうに思える事もこうやって言葉にすると、その人の考えや、その考えを支える生き方が見えてきます。自分にとっての『普通』を見直すのは自分の生き方を見直すことなんですね。(稲川)



『普通』って何や?

河野 良子

「せんせー、今日、私すっぴん!えらい?!」
「えらくな〜い。それで、普通!」
「せんせー、オレ、今週まだ遅刻してない!えらい?!」
「えらくないッ!それが普通!!」
「せんせー、ちゃんとプリント書いたで!えらい?!」
「えらくないっちゅうねん!それで普通や!」
「せんせー、スカート長いやろ!えらい?!」
「えらくないの!それが普通なの!!」
 人の『普通』感ほど当てにならないものはない。流行り初めのころ奇異に感じたものも、世の中に出回ると見慣れてしまう。化粧をしている女子中学生。毎日遅刻の子。筆記用具も持たない生徒。短いスカートの下の長ジャージ。そういう姿に慣れてしまうと、そうではない時を思わず「えらい!」とほめてしまいそうになって、これをほめてはいかん、いかん!と苦笑いしながら、「それが普通やろ」と一生懸命言うことになる。

 子どもたちが『卒業文集』というものを作っていて、「先生たちも何か書いてください」と原稿用紙を渡された。私はいつもその学年の子たちを見て何かテーマを決めて書くことにしているが、今回は「普通って何や?」というタイトルで原稿を書いた。この子たちが『普通』と感じていることの中には、他の中学校ではびっくりされるようなことがかなりある。とんでもない化粧やら服装やら、無頓着というかおおらかというか、驚き呆れて注意も指導も仕切れぬままになっていることもおおいのだが、中にはなかなかステキな『普通』感も持っている子どもたちである。この地域をでたときに、その呆れることもステキなことも一気に『普通ではない』という枠の中に押し込めて、捨ててしまうなよ、捨てられてしまうなよと思って、そんな文集原稿を書くことにしたのである。
 私は、『普通』というのは『多数』と同じだと思っている。その時、その場の『多数』が『普通』を作る。『普通』というのはそれが『正しい』ことでも、それが『当たり前』であるべきこととも違うのに、なんとなく『正しい』『当たり前』のことという錯覚を伴う言葉である。そして『普通』と言ったとたんに、それが正しいのか・それが当たり前でよいのかと自らに問いかけることをやめてしまう。逆に「普通ではない」と言われたら、どこか間違っていて改める必要があると迫られているように感じるし、実際そのように使われることが多いだろう。
 この子たちが卒業後に、「せんせー、こんなことあってびっくりや!」と言って来たときに、「それはあんたの方が正しい!えらい!!」と言ってやりたいと思うことがある。「どんなに『普通じゃない』と言われても『変や』と思われても、『これが当たり前やろ!』と言い続けなさい」と思うことがある。

 教員の生活というのは、毎日さまざまな事件が起こり、子どもは日々ちがった顔を見せるとは言え、それを3年程のサイクルで見ると、さほどの変化がありようもない。そのような状況の中で、私たち自身がいとも簡単に『多数』という『普通』に浸って、生徒にもその普通感を伝えてしまっていることがあるだろう。自分の『普通』を映して眺める鏡のような場所を持つことの必要を考える今日この頃である。




井川先生の文は、本文だけでなく注釈もとても興味深いのでなんだか一度読んで2度、3度得したような気がします。京料理のページを開いてみるとおいしそうな写真と作り方が出てきて、自分の心もホッコリしてくるみたいですよ。(稲川)



「自前の美学」

井川好二

「お待っとうさん、蒸し物1 どす」と、白い萩焼の小鉢に入った、金目鯛2 の蒸し物が運ばれて来て、ホワッと湯気が漂う。

「おお、この餡かけ3 になってるところが、寒い時には、何とも云えんな」
「ホッコリ4 します やろ」
「うん、けど、なんや、ちょっと、中華みたいな・・・」
「さすがは、センセ。その、生姜のあたりが、隠れChineseですねん」
「ふーん。けど、ほお、美味い!」

日本人は、物マネが得意な民族である、ことになっていて、これはと云うものは、世界中から、何でもかでも、なりふり構わず取り入れ、固有のものなど別に何にもなくて、あちらこちらからの当座の借用で、厚かましくも成り立っているのが、今の日本文化と云うわけらしい。

古くは、中国からの借り物。最近は、西洋のイミテーション。つまり、「物マネ・レンタル文化」の国。もっと意地の悪い言い方をするなら、国際社会では、決して一人前には認めてもらえない、「猿マネ・盗人文化」の巣窟。

「そう云えば、この間、福岡で中華食べにいったら、鰻がでてきて」
「へえ」
「それが、蒲焼きにそっくりやってんけど、関西風の」
「あら」
「へえって、思ったけど、まあ、それもエエかって感じ。結構合うてたな」
「そうでしょうね。鰻って、長崎の卓袱料理5 とかにも出てきそう」
「エエとこ取りなんや、日本文化は」
「へえ、美味かったら、エエんです」

猿たちがどういうつもりで、人間の仕草を真似るのか、知る由もないが、「猿マネ」とは、「猿が人間の動作をまねるように、本質を理解せずに、うわべだけまねること。むやみに他人のまねをすることを軽蔑していう」[広辞苑第五版図版付き]と云う意味だそうである。

しかし、明治維新以降の日本の「文明開化6 」が、西洋の猿マネであったとしても、それが「自前の猿マネ」であったところに、日本史のユニークさがあるのだと、司馬遼太郎7 は云う。つまり、よその国の世話にならず、自腹8 を切って、近代化=西洋化を急速に成し遂げたところが、世界に類を見ない日本の特徴であると云うのである。

ここでは、日本人を猿、欧米人を人間に喩える、この物言いの差別性への批判は置く。しかし、西洋を三蔵法師、日本を孫悟空と云うなら、そう悪い気はしないのだが9

ともあれ、短兵急に近代化を進めるにあたって、限られた期間内に集中的な投資を行って、一気にインフラを整備し、人的資源を育成し、経済を離陸させる。むろん、この急激な近代化=西洋化の過程で、日本人としてのアイデンティティを失わないよう、「和魂洋才10 」のスローガンも忘れずに掲げた。

しかし、この「猿マネ」が、切っても切っても金太郎の顔が顕れる「金太郎飴11 」 のように、日本文化の本質のように思われ、そのオリジナリティの無さが批判される時代が、明治以来しばらく続き、西洋の模倣で、創造性のない安かろ悪かろが、日本人及び日本製品の代名詞になった。

それには、例えば、以下のような冷静な見方もあるが、

The depreciation of Japanese culture as a culture of copying lies less in its lack of originality, but in the Western state of mind in the 19th century (and beyond) concerning non-Western powers. Westerners reigned over mankind, the rest of the world followed in an elaborate hierarchy. The equality or even superiority of other cultures was not conceivable12 .

主流派とはならず、その結果、世界にどう見られているのかが、とても気になる「性格」が確立し、「民族のDNA」になった。つまり、夏目漱石の憂鬱、三島由紀夫のパフォーマンス、村上春樹の自意識、司馬遼太郎の苛立ち。蓋し、綿々と続くわれらの「アイデンティティ・クライシス」である。人は、これを「ポスト・モダン13 」と呼ぶのだろうか?

しかし、この日本の近代化=西洋化のポイントは、その猿マネが「自前で」行われた、と云う部分である。世界から注目されることはなかったが、このことが如何にユニークかと云うのは、19世紀列強の植民地政策、あるいは、現在のODA の発展途上国への流れ、を考えてみればハッキリする。

例えば、この10年以上、日本は、ベトナムへの最大のODA14贈与国として、ずいぶん多くのお金をベトナムに送ってきた。

日本は、これまでベトナムの道路、港湾、鉄道、発電所、病院、小学校、大学、農業、その他人材育成などの援助を行なっており、ベトナムへの援助総額のうち48%が日本からの援助であった(1999年)。その上、同国の財政支出の10%あまりが日本からの援助によって賄われたことになる。「ODA国別評価セミナー(ベトナム)報告書:2003年3月 財団法人国際開発センター」15

このことは、ベトナム社会の「日本化」と結びついている。むろん、仏領インドシナ時代の「フランス化」は、今も生きている。

しかし、明治以降の日本は、これを、自前でやった。むろん、輸出品としては、絹糸くらいしかなかった明治日本としては、なかなか辛い自前ではあった。その絹糸を売った金で、例えば、アメリカ人を雇い英語を習ったり、鉄道を敷いたりした。

自前の猿マネは高くついたが、その特徴を良く言えばEclectic16 のエエトコ取り、悪く言えば雑食の悪食の習慣は身に付いた。自前なんだから何を食べようと勝手なので、失敗もあれば無論無駄も多かった。しかし、明治以降100年以上経って、その試行錯誤の繰り返しの過程で多くを学び、欧米のAuthenticとは違うが、地に足が着いて、熟れた「日本パターン」が立ち上がっているのである。

つまり、その「自前だから、Eclectic」と云うところがミソで、そうでなければ、主体性は生まれない。世界で好評の日本車は、その熟れたパターンの好例である。旨い日本の料理も、その典型である。エエとこ取りが、自前の美学であり、日本文化の特徴である。

「あとはワインにするわ」
「はい、シャブリにされますか?」
「うん」
「95年のレニャール17 が、冷えてますよって」
「うん、それにしよ」
「日本酒より、キリッとしますね」
「うん、寒いときは、かえってこの方が」
「はい」
「この自前も、高こつきそうやけど、まあ、それも勉強」


この国のモンキーマジックは、20世紀には、旨い料理と便利な車を生んだが、21世紀には、政治と教育の分野において、自前の善さを発揮して欲しいものである、と年の終わりに思う。(Saturday, December 13, 2003)

  • 1蒸し物とは、”蒸す”と言う加熱調理法を利用した物で、水を沸騰させてその蒸気を利用する方法である。全体をむらなく加熱できるので、材料を途中で動かす必要がなく、又、煮くずれを起こすこともなく、形を保ったまま、一度に多くの材料を平均して加熱出来、材料の持ち味を逃がすことなく料理が出来る。秋、冬に多く出される、季節料理でもある。http://park.org/Japan/Kyoto/culture/kyoryori/k_b06.htm     文章に戻る
  • 2きんめ‐だい【金眼鯛】‥ダヒ キンメダイ科の海産の硬骨魚。体はやや長く側扁し、紅色。眼は大きく、黄金色に輝く。ほぼ世界中の深海に分布。ニシキダイ。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 3くずあんをかけた料理。あんかけどうふの類。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 4あたたかなさま。ほかほか。狂、木六駄「燗を−として一杯飲まう」[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 5しっぽく‐りょうり【卓袱料理】‥レウ‥江戸時代、長崎地方から流行し始めた中国料理の日本化したもの。主として肉・魚介類を用いた各種の料理を大皿に盛って食卓の上に置き、各人取り分けて食べる。長崎料理。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 6ぶんめい‐かいか【文明開化】‥クワ人知が開け、世の中が進歩すること。特に明治初年の近代化や欧化主義の風潮を言った。新聞雑誌2「じゃんぎり頭をたたいてみれば−の音がする」[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 7司馬遼太郎 (1991)「春灯雑記」東京:朝日新聞社。    文章に戻る
  • 8■じ‐ばら【自腹】1 自分の腹。2 自分の財布。自分の銭。また、自分の銭で支払うこと。●自腹を切(き)る自分の金を出して支払う。多くは、あえて自分が費用を出さなくてもよい場合に出すことにいう。(C)小学館    文章に戻る
  • 9中野美代子 (2003)「西遊記の秘密:タオと煉丹術のシンボリズム」東京:岩波現代文庫 参照。    文章に戻る
  • 10和魂洋才【わこんようさい】古くからの〈和魂漢才〉の語を幕末に言い替えたもので,本質的な精神的道徳的なものは日本のものを核とし,その上に西洋の科学や技術を取入れるとの考え。佐久間象山の〈東洋道徳,西洋芸術〉や橋本左内の〈仁義之道・忠孝之教は吾より開き,器技之工・芸術之精は彼より取り〉などの語に示されており,洋学や技術を学ぶ者にはかなり拡がっていた。西洋科学導入の自己正当化と批判への弁解の論理でもあった。中国の〈中体西用〉にも通ずる。ここからは折衷主義しか出てこないが,この視点は近代にも続いており,真の西洋文化の受入れとは何かという問題が提起されている。[岩波日本史辞典]    文章に戻る
  • 11きんたろう‐あめ【金太郎飴】・・ラウ・・どこで切っても同じ金太郎の顔が出てくるように作った棒状の飴。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 12Nishimura-Schermann, S. (2001). Printing and the concept of originality in Japan. Available: http://ssl.brookes.ac.uk/JIG/ejrc/abstracts/Schermann.htm     文章に戻る
  • 13◆ポスト・モダニズム(post-modernism)〔哲学・思想〕モダニズムのあとに生まれた芸術・文化の運動で、最初は建築の領域で用いられた概念であるが、まもなく一般的に使われるようになった。モダニズムが合理主義・機能主義と結びついて明確で単純な要素からなっていたのに対し、ポスト・モダニズムでは、異質な要素の組合せや、過去の作品からの引用によって作品がつくられる。その意味でポスト・モダニズムは、思想の領域のポスト構造主義と対応している。ポスト・モダニズムは特に建築・デザインの領域で具体的な作品となって現れている。それらの作品はしばしば折衷主義の傾向をみせているが、それはポスト・モダニズムにおいては、なにかひとつの強力な原理による支配がなく、さまざまな要素を寄せ集めなければならないからである。キッチュはそのひとつの表現形式である。[現代用語の基礎知識2003]    文章に戻る
  • 14◆ODA大綱(Official Development Assistance Charter)〔世界経済〕日本政府は一九九二(平成四)年六月、政府開発援助(ODA)の理念を内外に示す「ODA大綱」を公表した。これまで、日本のODAは経済的利益に傾き、理念をもたないとの批判がひろく行われてきた。ODA大綱はこうした批判に対して、従来国会の場で示されてきた人道的見地と国際社会の相互依存関係(南の途上国の繁栄が北の先進国の繁栄につながるという関係)という先進国援助共通の理由に加えて、平和憲法の理念、環境保全、途上国の自助努力に基づく「良い統治」(民主主義的で汚職腐敗の少ない公正で自由な体制)実現による健全な経済社会発展支援等をあげている。具体的に供与の際に考慮されるべき原則としては、(1)環境と開発の両立、(2)軍事的用途、国際紛争助長への使用の回避、(3)軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造、武器の輸出入の動向への十分な注意、(4)民主化促進、市場経済導入、基本的人権・自由の保障への注意、の四点がある。援助の重点地域としてはアジア、最も開発の遅れたLLDCへの配慮をあげ、このほか、ODAの効果的実施のために、途上国との政策対話、有償・無償等各種援助の有機的連携、他先進国や国連、地方自治体、NGO等との連携、民間技術の活用、女性・子ども・障害者等社会的弱者への配慮等を示し、ODAへの理解と支持を得るための情報公開、広報・開発教育の強化の必要も指摘している。このODA大綱は、DACの場など国際社会の世論をふまえて、九一年制定されたODA四原則をさらに包括的な形で発展させたものだが、民主化促進、市場経済化など個個の項目の内容をどう具体的に理解して、推進するかは、政府・国民の双方に残された課題である。[現代用語の基礎知識2001年版]    文章に戻る
  • 15http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/siryo/siryo_3/khs_viet     文章に戻る
  • 16せっちゅう‐しゅぎ【折衷主義】(eclecticism) 種々の体系から相互に妥協できる考えだけを選び取って、まとまった形に作り上げる態度。殊に古代哲学の末期に有力となり、キケロはその代表者。近世においてもライプニッツ‐ウォルフ学派その他フランス19世紀のクーザン一派にもこの傾向が見られる。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 17ブルゴーニュ白:1860年のシャブリの名門「レニャール」。設立当初から品質至上主義を貫きとうし古くから優秀なすばらしいワインを生み出していました。畑の所有面積は全部で11ヘクタールでシャブリの生産者中では少ないものの、それ以外に数多くの優れた契約農家と契約を行い、現在はロワールの名門「ド・ラドぅーセット」男爵が所有、設立以来スタイルを変えることなく、今もなをクオリティーの高いワインを生み出しています。http://www.rakuten.co.jp/masumotoya/357234/479966/    文章に戻る





題名を読むとこんな事今から言っちゃって良いの?って思いますが、そこは辻先生のこと、すべては、自己変革に通じるのです。職歴とアクロス歴がほぼ一緒なんて、うらやましいと思うのは私だけではないでしょう。このESSAYでアクロスの30年の歩みがちょっとわかります。 (稲川)



異動希望あり

辻荘一

 毎年10月になると、異動希望調査がある。その際現任校何年、それ以前の勤務校何年と言う形で、職歴も書かされるし、もちろん学歴も書かされる。高校卒業が何年だったか、就職したのは何年だったか毎年思い出し直さなければならない。コピーを取っときゃいいのに不精するせいもあるし、コピーをとっても1年後にはなくしているせいもある。

 ただ就職した年は、思い出すのが比較的簡単だ。発音研究会1に入った前年だからだ。つまり、私の職歴とアクロス暦はほぼ重なっていて1年数カ月の誤差しかないことになる。さらに言うなら結婚生活とACROSS歴はさらにピッタリ重なっていて、英語教師の妻と結婚したのはアクロス入会の数カ月前で、入会後4、5年は発音研究会にも夫婦で来ていた。ちょっと覗いてみるかという気持ちで参加したものの、その面白さと実用性に取り付かれて、現在に至っている。

 当時はまだ創設者の中津燎子さんを中心に活動していたのだが、その中津さんがやめると言い出したのは入会後数年、まだ私が中級の時だった。今は、実感はないだろうが、当時は中津さんの個人的な信奉者もあり、発音研究会解散もありえた大事件だったのだ。大阪の炉端焼きの店に大阪の主だったメンバーや北九州2の恐いお姉さん方と飲みに行き、井川さんから「どうや、中津さんやめたら解散するか?」といわれ、「やりましょうよ。べつに中津さん個人が理由で来てる訳やないし」と答えたことを覚えている。当時まだまだ新参者であった私が指導を受けていたのは諸先輩型で、中津さんに直接指導を受けたことはほとんどなかったから、それが正直な気持ちだった。もちろん怖いお姉さんがたも同意見であった。

 こうして発音研究会は後にACROSSと名を変え続くことになった。これは発音研究会を中津さんの個人的な塾という形ではなく、カリキュラムや実習体制などの組織作りに取り組み、教師の自主的3な研修団体組織に育て上げてきた創成期の先生方の積み重ねがあったからだ。

 ACROSSはただ発音研究会の過去の遺産を引き継いで続いただけではない、訓練内容の見直し、新しい教科書の編纂、アジアツアーやスピーチ等の新しい規格も加えて、その内容も充実させ、常に変化を遂げてきた。最近ではNPO法人e-dream-sの設立、ECAPの開始が大きな変化だ。

 ACROSSは過去何度も現状維持か変革かという決断を迫られてきた。アルファベットとチャップリンのディクテータースピーチだけだった訓練カリキュラムの時は、発音訓練だけで十分という現状維持の選択と、自己表現の為にスピーチを訓練に取り入れるという変革の選択があり、変革を選択した。三年制カリキュラムを越えたアジアツアーの実施も変革の選択であった。さらにNPO法人e-dream-s、ECAPすべて現状維持ではなく変革を選択した結果である。

 変革は膨大なエネルギーを要求するし、痛みを伴うこともある。決して平坦な道ではないが、変革しなければ生き残れないのである。そして変革は時が経てば自明のものとなる。スピーチメイキングがないACROSS、アジアツアーがないACROSSなど今は想像できないのである。

 どこの援助も受けていないACROSSのような自主研修団体は現状維持に汲々としていては、自己満足にはなるかもしれないが先細りは目に見えている。今年は発音研究会時代から数えて30周年、次の変革とそれを実行するエネルギーをACROSSが求め始める時期かもしれない。

 と、ここまで考えて、さて自分自身の次なる変革は何かと、考えはじめた。とりあえず転勤が転機となるかもしれない。異動の可能性を上げるために異動希望地域を例年より広めに書いて教頭に提出した。






日々の授業に追われて教科書ばかり見ていると、こんな疑問を提示されて「えっ!そうなんですか。」と驚いてしまいます。でも驚いているだけじゃだめですね。そこから疑問を広げて勉強しないと。井川先生の文章はいつも学習意欲をかきたててくれます。(稲川)
ACROSSTALK from Japan



「英語教育に関する若干の疑問点」

井川好二

 英語教育を長くやって、教師の甲羅に苔が生えるようになってくると、日頃何気なく行っている教育活動に、いろいろと疑問が湧いてくるのであって、今回はその疑問に敢て触れ、賢明なる読者諸兄諸姉のご批判を仰ごうと云う趣向である。

 英語教師の研究会の機関誌であるので、こういう文章もたまには必要なわけであり、いくつになっても、常に新たな疑問を抱きつつ仕事をすることが、健全なプロフェッショナルの姿だと云える。



1. CLTの罠

 英語をコミュニカティブに教えること、つまりCommunicative Language Teaching (CLT) が、唯一無二の英語教育の方法ではない。

 それに、コミュニカティブに教えることで、寧ろ上手く行かないこともあって、CLTを続けることで、例えば、聞き取りやリーディングは上達するが、スピーキングやライティングなどは、それほどの伸びは期待できないと云われている1 。つまり、必要な情報を取得するための能力は伸びるが、こちらから情報を発信する能力の開発に関しては、それほどではないと云うわけである。むろん、意味は通じる。しかし、文法的に正しく、社会言語学的に適切な文を生成できるかと云うと、その辺りが怪しい。あるいは、通じればそこまでは必要ないと云う態度が形成される。

 なぜこう云うことになるのかと考えると、要するに、コミュニカティブとは、「意図が通じれば良い」と云うこと。だから、”Don’t be afraid of making mistakes.”となるのは分かるが、この「通じれば良い」と云う授業を長年受け続けても、真のコミュニケーション能力がつくのやら、つかぬのやら。間違いを恐れずコミュニケーションをしようとする態度は大切だが、そこで事足りるとするのは、いかがなものか?と思ってしまう。

 世界中の教育やリサーチの現場で、こうした疑問が、いろいろな角度から検討されているのが現状と云えるのだが、一遍の疑いもなく、CLTを押し進めようとする日本の英語教育界に、ここで警鐘を鳴らしておくこともまた必要であろうと思う次第である2



2. 外国語習得は技術習得なのか?

 英語も含めて外国語を学習することは、何かの技術を習得する過程と同じなのだろうか3

 つまり、英語でコミュニケーションできるようになることと、料理が上手になることは、習得する材料が違うだけで、本質的に同じ種類の学習活動なのだろうか?そしてそれは、第1言語、つまり母国語を学ぶ場合とは、全く違った過程なのだろうか?

 この疑問は、第二言語習得理論の根本的な部分に関わる疑問で、どうしてこう云う疑問がでてくるかと云うと、第一言語習得に比して、第2言語の方は、やたらと失敗例が多いことから来る。

 自分のことや自分の教えた学生・生徒のことに思いを馳せれば、はっきりする話で、その中で、何割の人間が、英語学習に成功したといえるのであろうか?このことは何も、日頃から英語教育がうまくいっていないと、反省ばかりしている日本人のことだけを対象に述べているわけではなくて、アメリカやイギリスのことを考えてみればわかるように、どこの国だって、外国語教育が上手くいっているとは云えない現状がある4

 仮に、教えた生徒の8〜9割が失敗例だと云うのなら、そういう成功率の低さは、一般の技術習得の場合と同じ。プロになるのは、学習者の内ほんの一握りであることは、ゴルフのことを考えれば明らか。失敗例がほとんどないに等しい第一言語習得、つまり母国語は誰だって喋れるようになること、と比べて見れば、その違いは明白であろう。



3. クリティカル・ピリオドは存在するのか?

 クリティカル・ピリオド (critical period) とは、臨海点であって、それ以上年をとると、身体や脳の中で何かが起こり、つまり、ある種の科学的変化が起こって、今までほぼ自動的に上手く行っていた学習が、困難になることを指す5 。ある年齢以降は、生まれながらに備わっている「自動学習装置」が、使えなくなる事態になること。

 例えば、発音やイントネーションなどは、6歳がクリティカル・ピリオドと考えられ、それ以降は、本人がいかに努力しようが、ネイティブ・スピーカーと同等の発音・イントネーションになることはないと云う。

 むろん、ネイティブの発音・イントネーションがゴールであるかどうかが、この際ポイントではなくて、そういう学習の目標が、ある年齢を過ぎた学習者に到達可能かどうかを問題しているのである。

 こうした概念は、音楽やスポーツの学習において云われていることによく似ている。つまり、英才教育とは、早期に始めるものであって、大人になって始めたのでは、ふつうは追いつかない。

 語学学習に話を戻すと、発音やイントネーションなどの音声面だけについて、このクリティカル・ピリオドが云々される訳ではなくて、文法の学習についても同様の議論がなされていて、それをUniversal Grammar6 (UG)と云う7 。ある年齢以降は、そのUGをフル活用することが難しくなる。



 今回は、以上3点の指摘のみに留め、他の点に関しては、次回以降の議論とする。 (Saturday, November 8, 2003)

  • 1Swain, M. (1985).Communicative competence: Some roles of comprehensible input and comprehensible output in its development. In S. M. Gass, & C. G. Madden (Eds.), Input in second language acquisition (pp. 235-253). Cambridge, MA: Newbury House.    文章に戻る
  • 2Ellis, R. (1991).Communicative competence and the Japanese learner. JALT Journal, 15 (2), 103-131.    文章に戻る
  • 3Bley-Vroman, R. (1988). The fundamental character of foreign language learning. In W. Rutherford, & M. Sharwodd Smith (Eds.). Grammar and second language teaching: A book of readings (pp. 19-30). Rowley, Mass: Newbury House.    文章に戻る
  • 4Widdowson, H.G. (1992b). ELT and EL teachers: Matters arising.ELT Journal, 46(4), 333-339.    文章に戻る
  • 5Scovel, T. (2000). A critical review of the Critical Period research. Annual Review of Applied Linguistics, 20 pp. 213-23.     文章に戻る
  • 6n. [言] 普遍文法 <(1) 言語の普遍的な特徴・制約を確立しようと試みる文法 (2) 人間の言語能力の根底にある生得的体系>.[リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る
  • 7Ellis, R. (1995). Appraising second language acquisition theory in relation to language pedagogy. In G. Cook, & B. Seidlhofer (Eds.), Principle & practice in applied linguistics: Studies in honor of H.G. Widdowson (pp. 73-89). Oxford: Oxford University Press.    文章に戻る





何人かの大阪支部の初級メンバーが自己紹介をかねて訓練で感じた疑問や、感想、訓練を続けていく上での葛藤などそれぞれ素直な気持ちを掲示板に書いてくれています。それを読んでいても、客観的に自分を見つめ、何が出来て何ができていないかを明らかにすると言うことは、厳しく、勇気のいる事なんだとつくづく思います。でも答えは自分で見つけるしかないんですよね。(稲川)
2003年10月号より


In process

河野 良子

 文化祭が終わって先週、1年生の学年集会で先生が喋っている…「君らは、文化祭であの素晴らしい3年生の姿を見ることができて、ラッキーやったぞ。」

 その素晴らしい3年生はずっと「この学年は、どうしようもない。大変だ!」と言われてきたのである。入学式に、茶髪・ピアス・革靴を履いてきた子もいて、式中は横向く、後ろ向く、喋りまくる。授業が始まったら毎日揉め事がおこって、ガラスが割れる。廊下には飴のかす、教室はお菓子の匂い。注意したらふてくされる、くってかかる。なかなか授業どころではない状況。そのころちょうど、アクロスにもご存じの方が多い作井さんが、論文の資料集めに通って来ていた。二人で教室に上がっていくと、喧嘩が起こっている、ガラスが飛び散って、誰か泣いている、わめいている、という場面に遭遇して、私はとにかく子どもを引き離し、職員室に連れて行く。「作井さんなんか喋っといてぇ!」と無茶なことをお願いして、他の先生に引き渡して教室に帰ってみると、作井さんがニュージーランドの羊の話しをしてくれていた、なんてこともあった。

 その素晴らしい3年生は、文化祭が終わって実力テスト・中間テストと続く受験生。文化祭で見せた、パワーや仲間意識が進路に向かっての力になるだろうと、教員一同、さあ、勉強だ!と授業に向かう。と、また揉め事が起こっている。実力テストはさんざんな結果。子どもも教師もIn processなのである。

 どうしようもない、大変な学年の生徒が、素晴らしいと一時でも言われるようになったプロセスに何があったかは、その場にいた子どもと教員にしか分かりようがない。世に、教育書や実践集は山とあるが、それはヒントにはなっても、自分の学校にとっての解決にはならない。教育書も読むべきだし、実践集からも学ぶべきだ。しかし、答えを求めてはいけません。本に書いてあることと、自分の目の前にいる子どもの間に、教員がいる。目の前の子どもをよく見て…。教員が自分自身の特性…できること、できないこと、自分の教え方や、話し方が子どもにどのように伝わるかを客観的に見て…。子どもと自分で何ができるかを組み立てていくのが、それぞれの学校現場のプロセスである。

 アクロスの訓練テキストはIn-Processという。チェックに通っても、それまでの訓練が総て習得できたものではない。中級に進むとまた、あれもこれも出来ていないと言われる。少しずつ出来ることが増えてくると、新たな課題が示されて、出来ていなかったものが明らかになる。訓練は50パーセントですよ、と言われる。実習側が教えることが50パーセント、訓練生が自分でやってくることが50パーセント。実習側が出す音は、訓練生が習得するものの答えではない。自分でやってくることの50パーセントの中で、いかに自分を客観的に見て、何が出来なくて何をするかと考えることが、アクロスの訓練である。実習側も、訓練生を見て、自分の教え方や話し方がどう伝わっているかを客観的に見て、自分と訓練生で何が出来るかを組み立てていくのが、実習のプロセスである。




昔、必死でヒアリングマラソンをやっていた事がある。ちょうどALTが頻繁に学校を訪れるようになった頃だった。今ほど、官製の研修に行く機会もなく、自分でいろんなセミナーを探してでかけたが、あんまり続かなかった。でも今は研修場所に困ることはない。ラッキーなことにアクロスに入っているからだ。何故かは、このESSAYを読むとよくわかりますよ。 (稲川)



「お勉強」と「芸」の向こう側

辻荘一

 Native Speakerが教師として優れているとは限らないし、英語が非常によくできるNon-Native Speakerの教師がそうでない教師より教え方が上手いとも限りません。限らないのですが、これはNon-Native Speakerの英語教師が英語を勉強しなくても良いということでは、もちろんありません。できないよりできる方がいいに決まっています。

 では、どの程度できれば良いのかという話になりますが、文部科学省は「英語教員は英検準1級、TOEFL550点、TOEIC730点以上が目標」としています。確かに英語教師としてはこの基準ぐらいはクリアして欲しいところですが、この種のテストで計測できる事には限界がある事には注意が必要です。英検を除けばスピーキングのテストはないし、教師のための試験ではないので、発音が「国際英語」の範疇にあるかどうかもわかりません。なにより、テストである以上何回も受験し適切なテスト対策を取ったものが実力以上の結果を残す事は避けられませんが、まあそれは置くとしましょう。

 では「英検準1級、TOEFL550点、TOEIC730点以上」をクリアした英語教員が、スピーキングも発音もその得点並にできるとして、英語教師として望ましい英語力をつけたといえるでしょうか。

 これがなかなかそうも言えないんですね。私の経験ではそうも言えない典型は2つあります。ひとつは英語の勉強が好きで、上記のテストでもかなりの高得点をとっているのに、自意識過剰と失敗を恐れるあまり、実際のコミュニケーションにほとんど参加しないタイプです。このタイプの教師がいくら生徒に失敗を恐れず英語で話しましょうといっても、まさに口先だけのお題目に過ぎませんね。

 もうひとつは、確かによくしゃべるけれど、内容が伴わないタイプです。内容が伴わないというのは、別に難しい事を話せと言う意味ではありません。内容がある事を話しなさいと言う事です。つまり自分がスラスラと話す事に主な関心があり、自分が何を言いたいか相手が何を聞きたいかと言う事にほとんど注意を払わないタイプです。このタイプの多くは同僚との日本語のコミュニケーションも上手く行かず、またそのことに本人も気付いていないことが多いようです。

 この両タイプに共通するのは、英語を「ことば」として捉えていないということです。前者にとって英語はあくまで「お勉強」であり、後者にとって英語は「芸」なんですね。

 繰り返しますが、英語はできるに越した事はないですし、文部省の言う基準もクリアすべきです。加えて、上記2タイプのような「お勉強」や「芸」としての英語を超えるためには結局、「お勉強」や「芸」としての英語では、通用しない場に自分で自分を置くしかありません。それはつまり、「自分が責任を持って成し遂げるべき目標があり、そのために英語を使わなければならない場」です。

 実はアジアツアーから発展したECAPは、そのための理想的な機会なのです。参加者は、相互理解教材の英語原稿を合宿中に仕上げると言う目標のために、日本語や英語の文献を読んで下調べをし、それを英語で説明できるように準備をし、合宿中は英語で議論し、英文を書かなければなりません。実行委員会のメンバーであれば、これに加えて、ホテルや観光業者と交渉し、韓国の先生方と打ち合わせをするという責任がありますが、e-mailにせよあって話をするにせよほとんどが英語です。

 これだけやって英語が上達しないわけがありませんし、その過程で磨かれた英語は、英字新聞、英会話教室、ヒアリングマラソンなどで得られる「お勉強」英語を越えたものであるはずです。

 設立から30年になろうとするACROSSは、常に本質を見据えて活動してきました。発音、ドラマ、スピーチすべて、本物であるからこそ、苦労も多くまた得るものも多いわけです。ECAPもまた本物です。今年参加できなかった人は、本物が目の前にあるのに経験しない、なんてもったいないことをせず、来年は是非参加しましょう。




題名を読むだけでいろんな思いが心の中を駆けめぐります。でも、この仕事を選んだのは自分。どんな構えで、教室に向かうのか、自分に問い返す日々の連続です。みなさんはどうですか。 (稲川)
ACROSSTALK from Japan



「天職と思えば、天職:隠れ家にて」

井川好二

 JRと地下鉄の両方の駅が入ったビルから、歩いて5分。とは云うものの、表通りからちょっと外れて、車の流れも疎ら。周りはもう住宅地と云う辺り。小ぶりのマンションの一階に、緑の木製のドアが見える。お目当てのトラットリア1である。そこだけが、浮かび上がったように明るい。

「ここなんです。ちょっと分かりにくいでしょ」
「そやなあ。知ってるもんしか来れへんな」
「けど、ここの手打ちパスタは、抜群ですよ」
「そら、愉しみやな」
「センセ、メンクイですもんね」

 中に入ると、テーブル、カウンター合わせて、15席程度。オーナー・シェフとアシスタントの二人で、切り盛りする小さな店。しかし、客の入りも良いし、なかなか活気があって、座るとゆったり落ち着ける。こう云う隠れ家タイプのイタメシ屋も、嬉しい。

 相談があると云う昔の教え子に、連れられて、今日は、普段あまり馴染みの無いエリアへやってきた。彼女は、2年間のアメリカ留学から帰って、この春からある専門学校で英語を教え始めた新米教師。張り切って教えていると云う話は、人伝に聞いていた。しかし、彼女が生徒の頃、英語はまあ出来たが、まさか教師になると思わなかった。人生いろいろ、である。

 アンティパスト2は、サラダと生ハム3。パスタはお勧めの、トマトソースのペンネ4と、カペリーニ5ペペロンチーノ6、と注文してから、ワインをどうする?悩むまでもなく、リストにあるバローロ7といってみる。少し高いが、むろん、これがイケル。

 メンクイでもあるが、生ハムにはちょっとうるさくて、最近、美味いスペイン産の生ハムを出すスペイン風バーを見つけて、喜んでいるが、大分産だと云うこの隠れ家の生ハムも美味い。

「それで、相談てなんやねん?」
「私、教師に向いてます?」
「向いてるか、云われても・・・」
「やっぱ、ダメですか?」
「いや、そう云うことやなしに」
「けど・・・」
「向いてるか、向いてへんかは、他人やない」
「はあ・・・」
「自分で決めるしかないんや」

 これが天職、と思えば天職。しかし、やっぱり転職と考えれば、流れは転職へと向かう。決めるのは自分しか無いのである。いやはや、ワインをどんどん飲んでしまいそうな話題である。

「新学期になって、上手いこといってないんです、あたしの授業」
「ようある話や」
「英語で授業してるんですけど・・・」
「偉いやん」
「けど、ずっと日本語で話し続ける男の子がいて・・・」
「なるほど」
「ちょっと、もう、授業になれへんようになってしもて」

 授業の問題は、授業でしか解決できない。授業にならない原因がはっきりしているなら、その原因を取り除くしかない。

「その生徒と話しするしかないな」
「はい・・・」
「授業の後で、話ししようか云うて」
「やっぱり、そうですか」
「そらそうや」
「あたし、非常勤やし、主任の先生に相談して、何とかしてもらおう思てたんです」
「それは大間違い。自分でせな」

 メインは、8のグリエ香草風味と、仔牛肉のミラノ風9カツレツ。このカツが美味い。コロモがカラッとしていて香ばしく、肉は柔らかく味がある。

 教師が非常勤であろうが主任であろうが、生徒にとっては、一時間の授業は一時間の授業。その授業を誰が責任を持っているのかを、はっきりさせる必要があるのである。

「その生徒、叱ることはないで」
「はあ・・・」
「こう云うつもりで、英語で授業してるねんけど、どう思う、って感じ」
「はい・・・」
「生徒の話しを聞く姿勢が大事や。ほんとは、ちゃんとやりたいねん、その生徒かて」
「と思います・・・」
「切っ掛けや、必要なんは」
「はい」
「素直になる切っ掛けや」
「話してみます」

 デザートは、パンナコッタ10ティラミス11。飲みものは、エスプレッソ12と、流れるのだが、やはり、美味いイタリア料理の後には、美味いグラッパ13を。しかし、美味いグラッパがでるこの隠れ家は、優秀である。

「教師を、天職と思うことや」
「はい」
「思わな、やってられん」
「はい」 「天職や思てやってたら、道は拓けるんや」
「がんばってみます!」
「そや、負けたらあかん」
「ありがとう、センセ」
「アホ、お前かて、センセや」

 表にでると、美味いグラッパの酔いが、心地よい。久しぶり晴れた空に、もう秋の月がかかっている。

 長い教師生活の間には、教え子が教師になって、自分と同じことに悩むようになる。それもまた楽しからずや。

 そして、自分がこの道と思ってやってきたことに、間違いは無かったとも思える。それもまた嬉しからずや、である。これが天職、と思えば天職、である。

 教師にとって勝負の秋は、もう始まっている。(Saturday, September 13, 2003)

  • 1trattoria n料理店,<特に>イタリアの大衆レストラン, トラットリーア.[It] [リーダーズ英和辞典第2版]    文章に戻る
  • 2antipasto n<イタリア料理> 前菜 (appetizer).[It] [リーダーズ英和辞典第2版]    文章に戻る
  • 3なまーハム<生ー>塩漬にした豚のもも肉を乾燥させながら熟成させた、加熱していないハム。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 4ペンネ<penneイタリア>(ペン先の意) パスタの一種。太く短い管状で、端を斜めに切ったもの。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 5極細パスタ。[現代用語の基礎知識2001年版]    文章に戻る
  • 6ペペロンチーノ(伊 peperoncino)[外来語年鑑2003年]トウガラシ。[現代用語の基礎知識2003]    文章に戻る
  • 7Barolo n (pl 〜s) バローロ<イタリア Piedmont 州の南部 Barolo 村を中心に生産される赤ワイン>[リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る
  • 8すずき<鱸>スズキ科の海産の硬骨魚。全長約1メートル。いわゆるスズキ型の美しい体形を持つ。背びれは2基。口は大きい。背部は暗青色で、幼時には黒褐色の小点がある。日本・中国の沿岸に産し、春夏の候には淡水にもさかのぼる。夏から初秋に美味。出世魚の一で、幼魚をセイゴ、少し成長したものをフッコといい、釣魚として珍重。普通、同属のヒラスズキと混称される。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 9Milanese  a ミラノ(人)の; <料理>パン粉[小麦粉]をまぶして油[バター]で焼いた<肉など>[リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る
  • 10パンナ・コッタ(伊 panna cotta)[外来語年鑑2001年]生クリームに牛乳やゼラチンを加えたデザート。パンナは「生クリーム」,コッタは「(オーブンなどで)焼くこと」の意。[現代用語の基礎知識2001年版]    文章に戻る
  • 11ティラミス(tiramisu)[外来語年鑑2001年]マスカルポーネに生クリームを加えたものをコーヒーにしみこませたスポンジやパイの生地の上に重ねたデザート。表面はココアパウダーで仕上げる。[現代用語の基礎知識2001年版]    文章に戻る
  • 12エスプレッソ(espresso)[食生活]イタリア式コーヒー。単に濃いコーヒーではなく、コーヒーの良い部分を凝縮したエッセンスといえる。カフェインの含有量のより少ないアラビカ豆をチョコレート色になり表面にオイルが出てくるまで深煎りし、細かくひいたものをエスプレッソマシーンを使って水蒸気でいっきに抽出することで香りとコクを最大限に引き出す。最近は、スターバックスコーヒーやシアトルズベストコーヒーなどエスプレッソをメインとするコーヒーショップの世界チェーンが続続と日本でオープンをしているほか、ドトールコーヒーやマクドナルド、ロイヤルなども専門店を出店している。コーヒー単体としてだけでなく、ミルクやチョコレートシロップ、オレンジなどのフレーバーなどを加え、おやつ感覚でバラエティ豊かな味が楽しめるのも人気の秘密。[現代用語の基礎知識2001年版]    文章に戻る
  • 13grappa n グラッパ<ブドウしぼり器の残滓から蒸留したイタリアのブランデー>[It=grape stalk<Gmc] [リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る





以前のNews Aを読み返していると、辻先生のこんな文章がありました。私も辻先生は何でも「さらっと」「書いているように」ついつい思っていました。しかしよく考えてみると、たった2,3行のこの紹介文を書くだけでも悩んでしまうのだから、自分の考えをまとまった文として人にわかるように書くというのは、たいへんなエネルギーと精神力のいる事なんですね。「書くこと」は「人生を、よりよく生きる助けとなる」とさらっと言ってのけるまでには、きっと数え切れないほどの原稿と眠れない夜があったと思います。News Aも含めて、アクロスが与えてくれる様々な全ての場を、よりよい人生のために使うも使わないも自分しだいですね。 (稲川)



「脳内文章作成ソフトウェア」

辻荘一

 こうしてNews Aにほとんど毎月エッセイを書くようになってもう10年近くになる。私の文章はさらっと気楽に書いているように見えるらしいが、もちろん見かけよりは苦労していて、何をどのように書くかは毎回四苦八苦している。毎回適当に何かをでっち上げるのだが、それでも何でも良いというわけでもなくて一応最低限の基準というのが自分にはある。それは、1)自分が書きたいことであること、2)読者が読みやすいまたは読みたいものであることの2点である。もちろんこれは私の目標であって、必ずしも結果がそうなっているとは限らないが。

 何を書くかが全く決まらないこともあって、この文章もご多分に漏れず締め切りを過ぎた状態で書き始めている。こういうときには今月あったこととか、読んだ本とか、テレビで見たことなどを思い出してみるのだが、ぜんぜん面白いことがなかったり、あっても書けないことだったりしてなかなか苦労する。そういう時の最後の手段は、過去の自分の文章の読み返しだ。もちろん同じことを書かないようにとか、ヒントになるということもあるけれどその効用の最たるものは、自分の精神状態を文章を書くモードに変換できると言うことである。

 これは誰にでもいえることではないかもしれないが、私の場合は文章を書くときは普段とは少し違う精神状態でなければならない。仕事をしているにせよ遊んでいるにせよ普段の生活と、文章を書くときとでは別の精神状態にある。つまり日常モードから文章モードへの切り替えが必要なのだが、実はこれがもっとも苦労するところだ。比較的簡単に切り替えができることもあるが、たいがいなかなか切り替わらず、コンピュータの前に座ったり、雑誌をめくったり、テレビを見たりして刺激を与えるのだが、うまくいかない場合も多い。

 このモード切替にもっとも役に立つのが、自分の文章を読み返すことなのである。自分の文章をたどり直すことによって、自分がその文章を書いたときの精神状態に近づくのである。こうして「脳内文章作成ソフトウェア」が起動できればしめたものである。出来不出来はあるにしても、後はたいがい何とかなる。そういうわけで今回もまた過去の文章を読み返して、モード切替を試みていたのだが、実は「脳内文章作成ソフトウェア」起動には文章が書けるようになる以上のものがある。

 人間の頭には日々様々な思いやアイデアが去来するが、はっきりした形をとらないうちに消えていくものが大部分である。言語化したとしても書き留めておかなければ忘れてしまう。たとえ日記などの私的な形で書き留めておいたとしても後で読み返したときに、どういうつもりで書いたか分からなくなったりする。しかし、News Aに書いた記事はその心配がない。毎月「自分が書きたいことを読者が読みやすいまたは読みたいものであるように書く」ことによって、その時の自分の考えや生き方を客観化することになる。読者が読みやすいということは、後で自分が読み返しても読みやすいということである。いつ読み返しても、その時に自分が何を感じ何を考えていたかは明白である。

 そんな七面倒くさいことをしないでも、わたしは日々ちゃんと考えながら生きています、という人もいるかもしれない。そういう人に訊きますが、あなたは一月前に自分が何を考えていたか覚えていますか。

 さらに自分の書いた文章が10年分溜まれば、立派な自己の精神史となる。それを時折読み返せば、長期的な視点で自分の人生を振り返ることになり、それはすなわちよりよい将来への展望を持つことにもつながっている。つまり、「脳内文章作成ソフトウェア」を起動するということは、自分の人生を内省的客観的に見る精神状態になっているともいえるし、さらにそれを長期間定期的に続けることは、限られた長さしかない人生を、よりよく生きる助けとなるのである。

 だから私のように読者を想定した形で一月に一度、自分の考えを書く機会を与えられているのは幸せなのだ。また、この幸せを少数のものだけが知らないのはもったいないことでもある。News AはACROSSの会員はすべてに開かれている。どうですか、皆さん「自分が書きたいことを読者が読みやすいまたは読みたいものであるように」書いてみませんか。楽なことだとはいわないけれど、それだけの価値があることは保証できますよ。




今回のESSAYは、英会話を上達させるためにはどうしたらいいかのヒントが書かれています。読むと、なるほどメモしておかなくては、と必ず思いますよ。しかし、よく考えるとこれは、英会話だけの話ではなさそうです。わたしは明日からの日本語会話でも、心がけたいです。言葉のキャッチボールをしながら、人と意志を通じ合う。これって日本語でも結構難しいとおもいませんか。 (稲川)
NEWS A 6月号より



「時間つぶし、時間稼ぎ」

井川好二

「やっぱり、和食って、エエですね」
「そう、色も綺麗し、形も上品」
「それに、美味しい」
「こうやって、一品一品持ってきてくれると、機内食とは思えんな」

エプロン姿のスチュワーデスが、「お待たせしました、『強い肴1』でございます」。運ばれてきたのは、「穴子の八幡巻2 有馬山椒3銀あん4かけ」旬の山椒の香りが食欲をそそる。「シャブリ5をもう一本、お持ちしましょうね」と云われても、嫌はないのが強い肴、あるいは単に酒好きなだけ。

「センセ、ひとつお聞きしても宜しい?」
「なんや?」
「わたし、英語の聞き取りの方は、何とかやれてる思うんですけど、話す方が・・・」
「さっぱりか?」
「意地悪やわ、そないに決めつけんでも」

利休箸6で八幡巻をつつきながら、冷えたシャブリを飲む。辛口の白ワインと和食の相性が抜群と嬉しく思えるのは、但し、機内で飲む酒が、地上より早くまわるからばかりではない。

尤も、機内では煙草が吸えなくて不自由する分、酒量が上がると云うこともあって、酔眼朦朧として着陸を迎えるのがこっちの理想だと云いきれば、眉を顰める向きもあるだろう。しかし、越境の通過儀礼の一つとして、大目に見ていただく。

「どないしたら、もっとちゃんと話せるようになるんでしょう?」
「そやな・・・」
「センセに教えてもらおう思てたんです」
「その、聞き取りは自信ある云うのも、どうかと思うけど、まあ、それはそれとして、喋る方ね・・・」
「そんなにもったいぶらんと、お願いします。可愛い生徒やないですか」

本来、会話とは一方通行ではなく、聞く立場と話す立場が、交互に入れ替わって成り立つもの、つまりインターアクションであるはずで、英語の場合も事情は変わらない。人の云うことは理解するが、自分からの発話が伴わないでは、コミュニケーターとしてバランスを欠くが、第2言語として英語を話す場合(Second Language Speaker)、ある程度の偏りはやむを得ないのだろう。

第2言語としての英語は、いつも発達過程にあり、その発達のプロセスでは、input(この場合で云えば、聞き取り)能力が、output(つまり、発話)能力に先行するのである。聞いたそのままが口から出ると云うのは、頭が働いてない証拠。

しかし、発話能力は発展途上でも、話すことをスムースに行うための方法はある。それには、発話能力そのものの発達を促す側面もあるが、むしろ、その未発達な発話能力を、補助する方法であると云える。

「時間を稼ぐことや」
「ええ?」
「こっちが云いたい内容を整理したり、それを表現する言葉を探すための、時間を稼ぐことや」
「はい」
「会話には、相手がいて、その相手との話のやり取りが、同時的に、つまり、待ったなしに展開するわけやけど、なかなかこっちはそのペースについていくのが難しい」
「ホンマに。何か云おうと思て、云うこと考えてる間に、もう次の話題になってたりして・・・」
「そやから、時間稼ぎや、英語では, “to buy time” と云うねんけどな」
「こっちが云いたいことを云えるまで、相手に待ってもらうわけですね」
「そう。それを上手くやる」

第2言語としての英語が、いくら上手になったとしても、母国語として話しているのではないことは、相手に分かる。これは相手が、ネイティブ・スピーカーであっても、なくても事情は同じである。だから、そんな言葉が不自由なやつとは、話したくないと思う人間もいるだろうが、そんな人間とわざわざ話すことはないだろう。

それで、こっちがネイティブ・スピーカーではないと、相手が判断した時点で、相手がネイティブ、あるいはこっちよりも英語ができるノン・ネイティブである場合、コミュニケーションでこっちに多少のハンディキャップをあげましょう、と云う態度になるのが普通である。

これは、日本語で日本語のネイティブでない人と話す場合を考えてみれば、はっきりして、こっちがゆっくりと分かりやすい表現を選んで喋ったり、相手の反応が多少遅くても待ってあげる姿勢をとったり、こっちの質問を繰り返したりする。これが結構疲れるのだが、相手にハンディキャップをあげることが、そう云う場合に必要な態度、つまりpolitically correct7なのだと、納得できる。

「けど、その上手い時間稼ぎって、具体的には、どうしたらエエんですか?」
「まず、相手に質問すること」
「はい」
「相手が何か云ったり、訊いてくることについて、それどう云う意味って尋ねる。ぼんやり分かっていることでも、はっきりさせるために訊いてみる」
「相手は、ごめんごめん、それはこう云う意味なんだけど、ってなりますよね」
「そう。コミュニケーションの流れを一旦止めて、こっちが云うことを考える時間がとれる」
「それって、相手の云うことがホントに分からない時より、多少分かっている時に効果ありそうですね」

質問された相手は、こっちにハンディキャップをあげなくちゃいけなかったんだ、と自分の思いやりのなさを謝るか、自分の云うことがハッキリしてなかったんだ、と反省するかである。

応用言語学では、Negotiation of Meaningと云う。その手段として、相手の云うことが分からないと云うClarification Requestと、あなたの云うのは、こう云うことですねと尋ねるConfirmation Requestに分類される。自分の話していることが、相手にちゃんと伝わっているか尋ねるComprehension Check と云うパターンもある。その結果、お互いの意味するところが、共有されて相互理解が進むと考えられる。

「しかし、これはやり過ぎてはいけない」
「はい」
「だってそうだろう、いちいち自分の云うことに質問されたんじゃ、相手は疲れてしまう」
「なるほど。揚げ足取られるような」
「だから、ここぞと云う時に、相手のメッセージのコアを、ビシッと突ける質問をできるように心掛ける」

「酢の物でございます」と運ばれてきたのは、昆布と長芋8の酢の物。酒を飲むあてにはアルカリ性のものが多いためか、酢の酸味が舌に心地よい。「ワインはいかがいたしましょう?」と訊かれて、少し考えていると、「鹿児島の熟成焼酎もございますが」と云われて、じゃあ、水割りでと他愛も無い。こっちの気持ちのコアをビシッと突かれたとも云えるし、落ち着くと任せきるのが、サービスを受けるものの礼儀とも云える。

「他の時間稼ぎの方法も教えて下さい」
「そやなあ」
「寝てしまいはる前に、お願いしますね」
「セット・フレーズやな」
「慣用表現ですか?イデオムとか?」
「好きな表現を、自分のものにして得意技にするんや」
「こう云う時に云うたら、ばっちり決まる表現ってありますよね」
「そう、それとそのレパートリーを広げる。考えんでも出てくるフレーズがたくさんあれば、それだけ考える方に時間とエネルギーをさけるわけや」
「日本語だったら、『ウッソー』とか、『あり得へん』とか」
「云うてる間に、考えられる」

そう云うつなぎ的な言葉が、自動的に出てくるようになるには、それなりに熟練を要するのであるが、第2言語習得がどこまで行っても、発展途上なら、そうした表現を使いこなしていくことも、今後の英語生活のために必要な投資と云えるのである。


熟成焼酎の酔いがまわって、少し饒舌になる。


コミュニケーションでの時間稼ぎとは、省エネ化、限られた資源の有効活用でもある。考えることに時間とエネルギーを使うため、浪費をしないこと。


「もうひとつ大事なこと」
「はい」
「結論から先に話すようにする」
「ええ?」
「それが、時間稼ぎのポイントや」
「なんでですか?」
「結論を先に、ポーンと云って、後からその理由付けをするんや」
「はい」
「相手が聞きたいのは結論やから、それさえはっきり云うといたら、その後の説明がしどろもどろでも、時間がかかっても、大抵我慢してくれる」
「なるほど」
「それに、そうすると、相手にとって、こっちが何を云おうとしているか、察しやすい」
「はい」
「だから、こっちが言い方が分からんときは助けてくれる。補ってくれる」
「相手の力を利用して、勝負する。まるで柔道やな」

他の客は食事も酒も終わり、テーブルもすっかり片付いた頃、「ご飯はいかがいたしましょう?」と、優しい笑顔のスチュワーデスが尋ねる。と訊かれても、もうワインと焼酎ですっかり出来上がった頭では、旨いだろうなとは思っても、胃の方で是非にと云う感じではない。そこで、すかさず「茶蕎麦もご用意できますが?」と云われて、素直に、はいと云ってしまうのは、こっちのメンクイ・ポイントを的確に刺激されたため。任せて安心なときは任せた方が良い。

コミュニケーションも、サービスも、相手の力を利用して勝負できるようになるのが、一番。サンフランシスコまであと7時間。時間稼ぎを考えながら、時間つぶしに、眠ってしまおう。
(Saturday, June 7, 2003)

  • 1 しい‐ざかな【強い肴】懐石(かいせき)の時、客に酒をすすめるために献立に加えて出す肴。進め肴。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 2 牛蒡(ごぼう)を芯にして穴子・鰻うなぎなどで巻き、つけ焼きにした料理。八幡牛蒡に因んだ名。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 3料理の世界で「有馬」といえば有馬山椒のことやそうで、それほどこの地の山椒は日本中で名物やちゅうことですわ。成瀬国晴「関西オイシイとこどり」 http://osaka.yomiuri.co.jp/naruse/greenpizza.htm より。    文章に戻る
  • 4 銀あんの作り方 - 出汁200cc:淡口醤油コーヒースプーン1杯:酒2杯。煮立ってきたら、片栗粉と水を同割にした水溶きカタクリを少しずつ入れます。銀あんは冷すと少しとろみが弱くなりますのでとろみを強めにします。http://www.mytopia.co.jp/washokujuku/waza/unchiku/
    unchiku18.htm
    より。    文章に戻る
  • 5 ChablisシャブリBurgundy の Chablis 地方産の辛口白ワイン[リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る
  • 6 中央をやや太く両端を細く削って面を取った赤杉製の箸。[広辞苑第五版図版付き]http://www.stwds.com/active/lesson/japanesefoods/index.html 参照。    文章に戻る
  • 7 a 政治的に公正[妥当]な, 差別[偏見]を排除(しようと)した《略 PC;⇒→POLITICAL CORRECTNESS》[リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る
  • 8ヤマノイモ科の蔓性多年草。栽培上は一年生。中国原産で、日本の山野に自生化し、また多くは田畑に栽培する。蔓は左巻、三角心形の葉を対生。葉腋に「むかご」を生ずる。雌雄異株。塊根は円柱状で約1メートルに達し、秋に収穫、「とろろ」などにして食用。各地で品種を分化。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る





日本では、なんだか、耳に心地よい、「国際理解教育」ということば。先日、市の主催する研修会で、世界における「国際理解教育」と日本におけるそれは、歴史的にも、全く違う道をたどり、考え方にも大きなギャップがあるという話を長く国際交流に関わっている人から聞いた。どう違うのか、何が違うのか、話だけではなく、こんどは自分で検証したい。みなさんもECAPに参加していっしょにかんがえましょう。 (稲川)
NEWS A 6月号より



「巻き込まれること」

河野良子

先日、友人と食事をしながらこんな話になった。『国際理解教育』と『在日外国人教育』と『在日朝鮮人教育』と『朝鮮人教育』は、それぞれがどんなもので、どう違うか?学校の教員は違いを分かっているのか?それぞれの必要性を感じて実践しているのか?

 近頃、教育委員会つまり文部科学省は、国際理解教育を推進すると言っているが、何がしたいのか、どうもはっきりしない。もっと言えば、本当に必要性を解って、推進しようとしているのか疑わしい。『国際理解教育』以外の、『在日外国人教育』『在日朝鮮人教育』『朝鮮人教育』に至っては、ほとんどやる気はないとしか思えない。こちらをする気がなければ、『国際理解教育』も地に足のついたものになりようがないものを…。
 こういう『国際理解教育』は、きれいと珍しいで終わると思っている。それに貧しいとかわいそうが加わって、ますますもの凄いものになる恐れもあるぞと感じている。要するに『自分側』がない。外から眺めて「わあきれい」「おおかわいそうに」と言うだけで、自分が巻き込まれる覚悟がない。
 テレビで「日本人が日本を知らないといけない」というメッセージのコピーが流れていて、こんな視点がでてきたのはちょっといいなと思った。しかしそれが、音楽で和楽器やりなさい、体育で武道を、社会の教科書には天皇の記述が増えてとなると、「道徳の時間で『愛国心』を教えるのです」と言われたら、ちょっと待てよと思う。日本の何を知らないといけないのか…?
 日本の学校にいる自分の生徒について「あの子は北朝鮮籍」なんて言う教員もいて、教員自身が在日朝鮮人教育を受けないまま教壇に立っている。戦前・戦中に朝鮮半島から日本に来た人達は、戦後すべて『朝鮮籍』となり、日韓国交回復後に『韓国籍』に変えた人と、変えないままの人がいる。私の友人はおじいちゃんの出身地、つまり自分の本籍は韓国領土内にあって朝鮮籍である。家族は父親と彼女が朝鮮籍で、母・兄・姉は仕事や結婚の関係で韓国籍に変えている。これは日本で起こっていることだが、私自身も教員になってから何年も知らないままだった。今後も文部科学省がそういう研修を作る気配はない。ならば自分で研修するしかない。

 本を読むことも必要だが、研修もやはり自分が巻き込まれる覚悟がないと、自分のものにはならないと思っている。巻き込まれて、困ったり混乱したり、驚いたり喜んだりすることが、自分を変えていく。教員研修と銘打つものは数多いが、アクロスの海外研修ほど巻き込み型の研修は他にないだろう。参加するにはまず、家族や同僚の理解を得なければならないが、そこで困ることも研修の内。すんなりと参加できる状況でないから不参加と決めるのではなく、その状況を変えるか、あるいはその中でなんとかできないかと考えるのが、あなたのECAPのスタートです。




アクロス会員は行くところいずこでも授業をしています。場所は変わっても新しいものに輝く子ども達のまなざしは同じですね。自分で授業をしてこそ、体験できる醍醐味がつたわってきます。さる5月25日に行われたチャータースクール視察ツアー報告会で発行された報告集より紹介します。 (稲川)



「頭にかぶって! はい、ポーズ!」
〜日本紹介ミニレッスン・折紙でkabuto〜

中川房代

今回のツアーの日本紹介のミニレッスンで、私は折紙の授業をした。それは、実際に手を使って作業をし、またミニレッスンの後にも記念に残るものがいいなあ、と考えたからだ。

さて、何を作ろう? 折紙の定番は「鶴」だが、複雑で難しすぎる。そこで新聞紙で「兜(kabuto)」を作ることにした。日本の新聞は、漢字や平仮名、カタカナ、数字、アルファベットで書かれており、縦書きの部分も横書きもあるし、カラーのページもある。折ることが目的だが、日本の新聞を見せるのも文化を伝えることになるので、日本の新聞紙を生徒の人数分持っていくことにした。

CAP (Community Academy of Philadelphia) では、7年生(約25名)を、CCS (Collegium Charter  School) では、8年生・9年生合同クラス(約50名)を担当した。日本でいう中学生にあたる生徒たちだ。うまくできるだろうか? 新聞紙を配ると、早速 “Sushi!”という声がした。ちょうど1面の下半分が寿司のコマーシャルの紙面だった。マグロやいくら、サーモンなどのにぎり寿司のカラー写真が並んでいて、周りの子が群がって面白そうにその紙面を見ていた。

最初に、長方形の新聞紙を正方形にするために、三角に折って残った部分を切り取るのだが、それが少し難しかったようだ。生徒の新聞紙より一回り大きめの模造紙を用意し、前で見本を折りながら説明を始めると、横の生徒とワイワイガヤガヤと話しながら、楽しそうに折っていた。上下左右表裏が分からなくなる生徒もおり、何回も繰り返して説明したり、生徒の横に行って教えたりした。

兜が完成。皆で頭にかぶりましょう! “Let’s try it on! ” かぶった姿が面白いらしく、生徒たちはお互いを見て褒めたり、笑ったり、また楽しそうな様子だった。これでいい?と何回も聞いてきたり、できたよ!と見せに来る生徒もいて、とても気に入り兜をかぶったまま休憩時間を過ごし次の授業に向かった生徒もいた。

ツアーの中で、見学するだけでなく、訪問者の私たちが実際に授業をし、直接生徒と接する機会があったことはとてもよかった。事前に何をしようかを考え、どう進めたら分かりやすいのか、どう英語で説明するのかの案を考え、準備をし、実行する。これは私たちにとっても、大変よい経験になった。また、生徒にとってもエキサイティングな授業だったようだ。CCSの理事をしているお宅にホームステイさせて頂いたのだが、そのお宅に辻岡さんの珠算の授業を受けた子どもがおり、帰宅してからも、授業が楽しかったことや計算の仕方を自慢顔で一生懸命に母親に説明していたのが印象的だった。

CAPでは、「兜」を作った後に時間があったので、「鶴」にも挑戦してみた。驚いたことに、何人かの生徒は既に鶴の折り方を知っていた。何故知っているのかと聞くと、ちょうどReading(英語の授業)の時間に、“Sadako” を勉強したばかりで、その時に教わったという。どんな物話なのかと尋ねると、広島で被爆し、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの闘病と、彼女をモデルにした「平和の子の像」の建立の話だった。原爆を投下した国アメリカが、どんな風に「原爆」を教えているのか今回は尋ねるチャンスがなかったので、また聞いてみたいとも思っている。

(写真:いずれもCollegium Charter Schoolで、2003年3月27日)




アメリカ、チャータースクールの授業風景をまじえた井川先生の教師論です。生徒達のドラムの音が本当に聞こえてくるようで。引き込まれて思わず読み終わってしまいました。最後のメッセージに、励まされます。(稲川)
2003年News A5月号より



「アフリカン・ドラムを聞きながら考えたこと」

井川好二

「よく聞いて!」
「まだ、叩けとは云ってないぞ!」
「いいか、よ〜く聞くんだ。おい、そこ!」
「おっと、Don't have an attitude1 !」
「よく聞いて!」
「リズムを、心で聞くんだ!」



  4時間目、音楽の時間。ソバージュ2にした茶色の長髪を、肩に靡かせながら、若い白人男性教師が叫ぶ。去年9月の新年度から教えはじめたばかりの新任教師である。肩幅の広いがっちりした体格は、体育教師を思わせるが、音楽学校出身の元ミュージシャン。奥さんはベネズエラ人だと云う。

  大きなアフリカン・ドラムを前にして、Lilliput3のガリバーのように、両脚を開いて立っている。声は太く大きい。「よく聞いて!」よく通る声である。ざわついていた生徒たちが、シーンとする。

  「リズムとメロディー。この2つの要素が、音楽の生命なんだ」

  自信たっぷりに、ごつい両手でドラムを叩きだすと、アフリカン・ドラムにしては、ちょっとアジア風に繊細で、不思議な味わいのあるリズムが、広い教室に響く。

  「トントン、トコトントコトン、トントコトン、トントコトン・・・」



  ペンシルバニア州West Chester4にあるCollegium Charter School5の、中学2年生の1クラス。白人も黒人もLatinoも混じった20数名が、音楽室のカーペット敷きの床に靴を脱いで、先生を遠巻きにするように座っている。正座をしたり、立て膝になったり、三角座りをしたり、胡座をかいたり、片脚を伸ばしたりと、バラバラな姿勢だが、座っていつもより小さくなった生徒たちは、自分の目の前にある小さなドラムを鳴らしたくてたまらない。しかし、ガリバー先生は、なかなか叩かしてはくれないようだ。

  「トントン、トコトントコトン、トントコトン、トントコトン・・・」

  アメリカのCharter School の授業を見学しながら、教師の仕事とは何かを考える。教師の仕事は、いくつかの矛盾を抱えている。

  ドラムは誰だって叩ける。叩けば音はする。子供だって、大人だって、サラリーマンだって、警官だって、ドラムを叩けば音はする。しかし、その音が「音楽」の音として認められるものかどうかは別問題。誰に「音楽」として認められるか、と云うこともある。つまり、「音楽」の定義は、文化によって異なるのだ。

  だから、叩き方が大事。誰でもできるが、ちゃんと叩くには訓練がいる。それなら、ちゃんと叩けることが、教師の条件か?プロのドラマーは教師か?あるいは、音楽の教師はプロのドラマーでなければならないのか?しかし、自分ができなくなくても、教えることはできる。そのことは、スポーツ選手のコーチのことを考えればはっきりする。マラソンの世界記録保持者も、コーチに指導を受ける。

  あるいは、アフリカン・ドラムをちゃんと叩けるようになることが、この音楽の授業の目的か?リズムとメロディが、音楽の2大要素であることを、体感させるのが目的か?実技と理論、実習と座学。その2つをどう組み合わせ、同バランスをとるか? ドラムの叩き方を教えるのと、シェークスピアの今日的意味を教えるのでは、そのやり方には違いがあるだろう。教え方は、教える内容を反映するものである。あるいは、方法が内容を決定する。

  ドラムは誰だって叩けるように、「教える」ことは誰にでもできる。親は毎日子供に教えている。歯磨きの仕方。ボタンの掛け方。または、老いては子に従えと云う。なんなら、ケータイの使い方を、高校生に教わってみたら?ちゃんと分かりやすく教えてくれるはず。

  なのに、その誰でもできることで生計を立てるのが教師。もちろん、教え方の上手い教師も、下手な教師もいる。それでも、教師は教師。学校教育では、原則として、生徒は教師を選べない。

  考えてみれば、teach (教える)という動詞は、「何を」と云う直接目的語と、「誰に」と云う間接目的語をとるが、「学ぶ」は、直接目的語しかとらない。

- I’m going to teach you English.
- I learned how to play the piano.

  教えられなくても、学ぶこともある。アフリカの草原で、毎日、ドラムの音を聞いて育った子供は、授業で教えられなくても、ちゃんと叩けるのだろう。リズムとメロディーが、音楽の生命と知らなくても、両手でしっかりとリズム刻み、笛だって吹けるに違いない。

  やっと、ガリバー先生のお許しがでて、生徒たちがドラムを叩きはじめた。

  「トントン、トコトントコトン、トントコトン、トントコトン・・・」

  しかし、しっかりとしたリズムにはほど遠い。先生のリズムについていこうと、まじめに叩く生徒もいれば、自分勝手な投げやりムードの生徒もいる。全体としては、バラバラと云う感じ。無理もない。

  「教師」と云う職業が抱える矛盾は、以下の3点に纏めることができる。
  1. 誰でもできる「教える」という行為を、ある条件を満たして、「教師」と云う職能集団に加わることにより、他を排除して占有し、かつその行為を行って生計を立てているのが教師。
  2. 「教える内容」とそれを「教える技術」とは別物であって、別物ではないこと。
  3. 「教える」行為の結果は、必ずしも学習者の「学ぶ」に結びつかないこと。
  「トントン、トコトントコトン、トントコトン、トントコトン・・・」

  調子外れなアフリカン・ドラムのリズムが、教室いっぱいに響く。ガリバー先生が、また、

  「よく、聞いて!心で聞くんだ!」

  生徒のリズムも、少しはまとまってきたか。やれやれ。

  教師の道は遠く、矛盾を孕んでいるが、この道を選んだ以上、自分の脚で歩くしかない。(Saturday, May 10, 2003)
  • 1<俗> 否定的[敵対的]な構え; <俗> 偉そうな[傲慢な]態度.[リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る
  • 2ソバージュ‐ヘア(sauvageはフランス語で「野生の」の意) 毛先の方から細かくパーマをかけてウェーブをつけた髪型。1983年頃より流行。[広辞苑第五版図版付き]    文章に戻る
  • 3リリパット<Swift, Gulliver's Travels の中に出る小人国>[リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る
  • 4n. ウェストチェスター<Pennsylvania 州 Philadelphia の西にある市, 1.8 万>[リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る
  • 5http://www.collegium-charter.org/ 参照。    文章に戻る





現在の英語教育の基礎:10の考え方がわかりやすく紹介されています。
1.Input:「意味のある英語」に出来るだけたくさんふれることに始まって
10. Teacher is a key. 教師は生涯学習 まで
あなたが、日々の授業を組み立てていく前に、常に立ち返って読んでみればきっと何かが自分の中から湧いてくることは、まちがいありません。(稲川)

News A 2003年4月号より



講演「英語学習の基礎知識1(増補版)

井川好二

  「英語学習」を考えるとき、「英語」と「学習」と云う2つの言葉で成り立っていることに気づきます。「英語教育」と云う言葉もありますが、今回は敢て「学習」の観点、つまり学習者の立場から考えてみたいと思います。

  どんなことを学ぶ時でも事情は同じだと思いますが、学習内容と学習主体が存在します。何かを学習したいなら、学習主体がその学習内容に働きかけて、内容を実践する以外に、方法はないとは、毛沢2 も言う通りです。

  本日は、英語の学習のお話をさせていただきますが、主にその学習内容と学習主体との関係から、現在の英語教育の考え方と基礎となっている10の考え方をご紹介したいと思います。

1.Input インプット:

「意味のある」英語に、できるだけたくさんふれること。

  聞いたり読んだりして、言葉にふれることを、Input3 (インプット)と言います。

  赤ちゃんが母国語を話せるようになるのは、自分でしゃべりだすまでに、まわりの人たちが話す多くの言葉(インプット)を聞いて、それを理解しようとする期間があるからです。(これを、silent period と云います)

  外国語学習の場合にも、言葉のインプットがなければ、話せるようにはなりません。ですから、まず、英語の「聴き取り」をできるだけ多くやることが最重要です。

  しかし、インプットが難しすぎたり、易しすぎたりすると、逆効果。学習者のレベルにあった「質の高い」インプットが、たくさん必要なのです。

  言葉のインプットは「聴き取り」だけでは、不十分です。幼児言葉が進化して大人のコミュニケーションができるようになるためには、「読む」インプットが必要なように、英語をたくさん読むことも必要です。(Cummins, 1979) 4

2.Output アウトプット:

「自分の言葉として」英語を発話する

  言葉を、自分のものとして、話したり書いたりすることを、Output5 (アウトプット)と言います。

  泳げるようになるには、たくさん泳がなければならないように、英語で話せるようになるには、英語で発話する機会が多くあることが大切です。

  しかし、ただ何となく泳いでいても、進歩がないように、発話がその人にとって「目的」を持った、「意味のある」ものでないと、その練習の効果は半減します。

  また、どういう言い方をしたらよいのか、どこがいけないのかなどをアドバイスしてもらわないと、進歩はありません。

3.Interaction インターアクション:

「コミュニケーションの手段として」英語を使う

  言葉によるコミュニケーションは、一方通行ではありません。お互いに自分の言いたいことだけを言えばいいと言うのでは、コミュニケーションは成り立ちません。同じ場所、同じ時間に、双方向の意志疎通が起こることが、コミュニケーションなのです。

  ちょうどテニスの試合のように、こちらの言ったことに相手が反応し、相手の反応にこちらがまた反応すると言う相互作用(Interaction6 インターアクション)が、言葉によるコミュニケーションの基本だと言えます。

  日本語で話すときのことを考えても分かるように、英語でスムースなコミュニケーションを行なうためには、自分の発言に対する相手の反応を、瞬時にそして正確に理解して、次の自分の発言の内容・形態を、ある程度自動的に処理し、アウトプットできることが必要なのです。

  この時、相手の反応をある程度予想することができれば、こちらの反応は早くなり、対話に余裕が生まれます。(i.e., schema theory)7

  また、相手の言うことが理解できなかったり、思い通りの英語表現が思いつかなかったりして、コミュニケーションがうまくいかない場合に、どう対処したらよいのかを、瞬時に判断し実行することも、必須の能力と言えます。(i.e., strategic competence)8

4.Language System言葉の規則性:

「話すためのルール」を身につける

  言葉は、創造的なものであると同時に、規則的なものです。規則に基づいたシステムとしての言葉が、コミュニケーションを支えているのです。従って、英語を話すために、文法は必要ない、と言った極論を時々耳にしますが、こうした考えは誤っていると言う他はありません。

  文法は言葉のルールですから、文法の学習なしには英語の上達はありません。また、誰にも理解されない発音やイントネーションでは、意思の疎通は図れないことは明らかでしょう。

  しかし、交通ルールを暗記しているだけでは、車の運転ができないように、話す時に自動的に使える文法や発音でなければ、実際のコミュニケーションの役には立ちません。(e.g., Ellis, 1998)9

  中学・高校で習った英文法や発音を、実際の会話にスムースに使える「話すためのルール」に、バージョンアップする必要があるのです。

5.Intercultural Awareness 異文化理解:

文化の違いを理解する

  言葉は、文化と切り離すことはできません。文化の違いを無視して、外国語を学ぶことはできません。(e.g., Hymes, 1964)10

  そのためには、日本の文化や社会を正しく理解し、世界の文化や社会、特に英語圏の文化や社会と、客観的に比較することが必要なのです。

  「日本の常識」は「世界の非常識」と言われているように、日本的なものの考え方を直接英語の世界に持ち込むと、誤解のもととなりかねません。例えば、日本で知り合いになにかプレゼントをするとき、「つまらないものですが」と言って渡しますが、これをそのまま英語に訳して、英語圏の人に言った場合、相手は「そんなつまらないものなら、なぜ私にくれるの?」と疑問に思うことでしょう。一般的に言って、日本文化の「謙遜の美徳」は、英語文化では通じないと考えておく方が無難と言えます。

  そのように英語の文化と日本文化の違いを理解することが、日本人として英語を生きた言葉として使うことにつながります。その結果は、英語圏の文化や社会や、自国の文化や社会とは、一線を画した「第3の文化」、つまり、Global Cultureを、自分の中に構築することと言えるでしょう。(Kramsch, 1993)11

6.Goals & Targets 目的と目標:

目的を持つ・目標をたてる・進歩が見える

  なんで英語をやるの?12 英語を学ぶ目的をしっかり持ち、その目的のためにはどの程度の英語力が必要なのかを、はっきりさせること大切です。

  目的のない学習がうまくいく可能性は低いのです。「空を打つような拳闘はしない」と、聖書も言う通りですね 13

  外国語の学習は、自分ではなかなか進歩が見えないものです。大きな目的がはっきりすれば、そこへたどり着くためのステップが要ります。だから、比較的短い期間で達成可能な目標を立て、それに向かって努力するパターンをつくることです。

  TOEIC・TOEFL・英検などの英語検定試験は、こうした短期の達成目標として利用できるものでしょう。

  ただし、試験はあくまでも試験であり、あなたの実力そのものではありません。つまり、試験は、実力のある部分、または、その時の実力の影を、写すものにすぎないと言うことを忘れてはなりません。また、試験のための英語学習のみでは、本末転倒で、効果も薄いと言わざるを得ません。(e.g., Ellis, 199414)

7.Interest 興味:

「夢中になるもの」を通して学ぶ

  誰でも自分の興味のあることについて、聞いたり読んだり話したりするときには、つい夢中になるものです。

  英語の学習でも、その「つい夢中になった」状態を、たくさん経験するほど効果があると言われています。

  その「つい夢中になった」状態では、文法のことや単語のことは忘れて、その興味のある内容に引き込まれて、聞いたり読んだり話したりしているわけです。授業中、ある目的を達成するために、英語を使って様々な活動をすることがありますが、これもこうした考え方に基づいています。(i.e., task based language learning - Nunan, 199115 ; Skehan, 199816)

  俗に、英語のネイティブ・スピーカーのボーイフレンドやガールフレンドを持つと、英語が上達すると言われているのは、この「夢中になる」心理と関係があるのかも知れません。

  そして、夢中になる分野をたくさん持っている人ほど、英語の上達が早いと言われています。それは、「話題の引き出し」をたくさん持つことだ、とも言えるでしょう。(e.g., Chiang & Dunkel, 1992)17

  自宅でも、興味のある雑誌や本などの読みもの、ビデオ、CD、インターネットを活用して、夢中になることが、英語力を伸ばしていくことにつながります。

8.Learning Style 学習スタイル:

自分にあった学習スタイルを見つける

  人それぞれ趣味や性格が違うように、自分に相応しい学習のしかたは違うはずです。同じことを人から聞いた方がよく分かる人もいれば、読んだ方がすらすら理解できる人もいます。単語のリストを作って暗記するのが得意な人もいれば、会話の中で使った方がよく覚えられる人もいます。(e.g., learning style - Reid, 198718 ; Japanese students - Hyland, 199419)

  ライフスタイルによっても、違いがあります。朝早く起きて学習するのが、自分に合っている人もいれば、夜にならないと、エンジンのかからない人もいます。

  要は、人それぞれ、人生いろいろ。ひとりひとりの個性とライフスタイルにあった学習方法を見つけ、それを生かすことが、効果的な英語学習生活の第一歩です。(i.e., learning strategy)20

  また、欠点を補おうと努力するより、長所をもっと伸ばそうとする方が、楽しくて長続きするようです。つまり、聞き取りの得意な人は、毎日電車の中や家で英語のテープを聴く習慣にするとか、読書の好きな人は、英語の推理小説を読んでみるとか、楽しめて長続きする習慣を持つことがポイントです。

9.English as the Global Language 世界に広がる英語:

世界に心と眼を開こう

  世界で10億人以上の人が、英語でコミュニケーションをしています。世界中のコンピュータに蓄積された情報の8割は英語です。(e.g., Crystal, 199721 ; Naisbitt, & Aburdene, 199022)

  英語は国際語です。グローバル化がすすむ21世紀、英語でコミュニケーションをする相手は、アメリカ人やイギリス人などの英語圏の国の人々に限られません。中国や韓国、ネパールやカメルーンの人たちとも、英語で話し合う時代になりました。 英語のさまざまなバラエティーに触れ、それぞれの特徴と共通点を認識し、国際語としての英語に慣れることが大切です。(e.g., Kachru, 198523 ; McKay, 200024) 日本人としてのアイデンティティをしっかり持って、自分の考えを発信できるよう、世界の動きに心と眼をむけましょう。

10.Teacher is a key. 教師は生涯学習:

いい先生に習おう

  英語を好きにしてくれる先生が、いい先生です。(i.e., motivation)25 もちろん学習するのはあなたですから、先生にあなたの代わりに学習してもらうことはできません。しかし、いい先生は英語を好きにしてくれます。いい先生は、英語の学習意欲を高めてくれます。

  そのために、いい先生は学習します。「生涯学習」と言う言葉は、教師のためにあると言われています。よりよい教師になるために、学習する先生を選びましょう。(e.g., Bailey, Curtis, & Nunan, 200126 ; Freeman, 198227 ; Gaies, 199128 ; Richards, 199829)

  ネイティブ・スピーカーの先生には、ネイティブ・スピーカーの利点が、日本人の先生には、日本人の良さがあります。ネイティブ・スピーカーの利点は、英語コミュニケーションのモデルになれることです。日本人の先生の良さは、同じ日本人として、英語学習のお手本を示せることです。どちらも大切な役割だと言えます。(e.g., Medgyes, 199430 ; Roberts, 199831 ; Widdowson, 199232) (Saturday, April 12, 2003)
  • 12003年3月、大阪YMCAで行なった講演「英語学習の基礎知識」を、改訂増補したものである。    文章に戻る
  • 2 「どんな人であろうと、ある事物を認識したければ、その事物と接触するほかに、すなわちその事物の環境の中で実践(生活)する他に、解決する方法は無い。-知識をもちたければ、現実変革の実践に参加しなければならない。梨の味を知りたければ、梨を変革し、自分の口で試しに食べてみることである。-革命の理論と方法を知りたければ、革命に参加しなければならない。真の知識は全て直接体験にその源がある」(毛沢東・1937.7)http://www.marino.ne.jp/~rendaico/sahasaisei._soshikiron_kyoiku.htm より    文章に戻る
  • 3Krashen, S.D. (1982). Principles and practice in second language acquisition. Oxford: Pergamon Press.    文章に戻る
  • 4Cummins, J. (1979) Cognitive/academic language proficiency, linguistic interdependence, the optimum age question and some other matters. Working Papers on Bilingualism, 19, 121-129. See also Collier, V.P. (1987). Age and rate of acquisition of second language for academic purposes. TESOL Quarterly, 21(4), 617-541. http://www.iteachilearn.com/cummins/bicscalp.html     文章に戻る
  • 5Swain, M. (1985). Communicative competence: Some roles of comprehensible input and comprehensible output in its development. In S.M.Gass, & C.G.Madden (Eds.), Input in second language acquisition (pp. 235-253). Cambridge, MA: Newbury House.    文章に戻る
  • 6Pica, T. (1987). Second-language acquisition, social interaction, and the classroom. Applied Linguistics, 8(1), 3-21.     文章に戻る
  • 7Carrell, P.L., & Eisterhold, J.C. (1983). Schema theory and ESL reading pedagogy. TESOL Quarterly, 17(4), 553-573.     文章に戻る
  • 8Canale, M. (1983). From communicative competence to communicative language pedagogy. In J. Richards, & R. Schmidt. (Eds.), (1983). Language and communication. (pp. 2-25). London: Longman.    文章に戻る
  • 9Ellis, R. (1998). Teaching and research: Options in grammar teaching. TESOL Quarterly, 32(1), 39-60.    文章に戻る
  • 10Hymes, D. (1964). Language in culture and society. New York: Harper & Row.    文章に戻る
  • 11Kramsch, C. (1993).Context and culture in language teaching. Oxford: Oxford University Press.    文章に戻る
  • 12中津燎子(1974)「なんで英語やるの?」東京:文春文庫。    文章に戻る
  • 13「新訳聖書」コリント人への手紙9:24-27. 1 Cor 9:24-27 (NLT) [24] Remember that in a race everyone runs, but only one person gets the prize. You also must run in such a way that you will win. [25] All athletes practice strict self-control. They do it to win a prize that will fade away, but we do it for an eternal prize. [26] So I run straight to the goal with purpose in every step. I am not like a boxer who misses his punches. [27] I discipline my body like an athlete, training it to do what it should. Otherwise, I fear that after preaching to others I myself might be disqualified. http://www.usethesword.com/james3.html より。    文章に戻る
  • 14Ellis, R. (1994). The study of second language acquisition. Oxford: Oxford University Press.    文章に戻る
  • 15Nunan, D. (1991). Communicative tasks and the language curriculum. TESOL Quarterly, 25(2), 279-295.     文章に戻る
  • 16Skehan, P. (1998). Task-based instruction. Annual Review of Applied Linguistics, 18, 268-286.     文章に戻る
  • 17Chiang, C.S., & Dunkel, P. (1992).The effect of speech modification, prior knowledge, and listening proficiency on EFL lecture learning. TESOL Quarterly, 26(2), 345-374.    文章に戻る
  • 18Reid, J.M. (1987). The learning style preferences of ESL students.TESOL Quarterly, students - Hyland, 1994)21(1), 87-111.     文章に戻る
  • 19Hyland, K. (1994). The learning styles of Japanese students. JALT Journal, 16 (1), 55-74.    文章に戻る
  • 20Oxford, R.L. (1990). Language learning strategies: What every teacher should know. Boston: Heinle & Heinle.    文章に戻る
  • 21Crystal, D. (1997). English as a global language. Cambridge: Cambridge University Press.     文章に戻る
  • 22Naisbitt, J., & Aburdene, P. (1990). Megatrends 2000:Ten New Directions for the 1990’s. NY: Avon Books.    文章に戻る
  • 23Kachru, B.B. (1985). Standards, codification and sociolinguistic realism: The English language in the outer circle. In R.Quirk, & H.G. Widdowson (Eds.) English in the world: Teaching and learning the language and literature (pp.10-36). Cambridge: Cambridge University Press.     文章に戻る
  • 24McKay, S.L. (2000). Teaching English as an International Language: Implications for cultural materials in the classroom. TESOL Journal, 9(4), 7-11.     文章に戻る
  • 25Brown, H.D. (1994). Teaching by principles: An interactive approach to language pedagogy. Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall Regents.    文章に戻る
  • 26Bailey, K.M., Curtis, A., & Nunan, D. (2001). Pursuing professional development. Singapore: Heinle & Heinle.     文章に戻る
  • 27Freeman, D. (1982). Observing teachers: Three approaches to in-service training and development. TESOL Quarterly, 16(1), 21-28.     文章に戻る
  • 28Gaies, S. (1991). English language teaching in the 1990s: How will teachers fit in? JALT Journal, 13(1), 7-21.    文章に戻る
  • 29Richards, J.C. (1998). Beyond training. Cambridge: Cambridge University Press.     文章に戻る
  • 30Medgyes, P. (1994). The non-native teacher. London: Macmillan.    文章に戻る
  • 31Roberts, J. (1998). Language teacher education. London: Arnold.    文章に戻る
  • 32Widdowson, H.G. (1992). ELT and EL teachers: Matters arising. ELT Journal, 46(4), 333-339.     文章に戻る





私の教室にも、一見、英語とは無縁という顔をして教科書には見向きもしない金太郎が少なからずいる。でもまわりの生徒が授業にのってくると「何々?」と顔を寄せてくる。そんな時の積み重ねが、やがてくるかもしれない「その時」に役だってくれるだろうか。日々、格闘する英語教師に希望をあたえてくれるESSAYです。(稲川)
2003年2月号より



「その時」

辻 荘一

  「先生、おら何で英語やるだ?」1と言ったのは足柄山の金太郎だが、英語教育は常にその目的を問われてきた。20数年前にACROSS(南大阪発音研究会)が「なんで英語やるの?」2という本をきっかけとして始まったのは、象徴的である。その問いが出るたびに英語教師は、返答に四苦八苦してきたのである。しかし時は流れ、インターネットが普及し、海外旅行が当たり前のものなり、日本が世界の中でコミュニケーションをとって生きていかなければならないことがますますはっきりしてきた今、「なんで英語やるの?」という問いはほとんど聞かれなくなった。

  英語の必要性、少なくとも有用性は自明のこととなり、ほとんどの人間が様々な目的のために様々なレベルの英語を必要としている、あるいは出来るようになりたいと思うようになっている。英語が出来れば役に立つ、カッコいいと知っている生徒達からは、なぜ英語を学ぶのかという問いより、どうしたら英語ができるようになるのか、どのようにすれば効率的に英語の力を高められるのか、といったことが聞かれるようになった。

  もちろん英語に興味がない、必要がないという生徒達も相当数いるのだが、そんな生徒たちも必ずといっていいほど、心の中では英語が出来たらいいな、とは思っているのである。もちろん努力抜きで、という条件が付いていたりするが。

  となれば、英語教師がやらねばならないことは、はっきりしている。自分の英語の力を高め、教え方を工夫することである。もちろん「英語の力」には音声も含まれるし、「教え方」にはいわゆる第2言語習得理論や教授法といった理論面だけではなく、ワイワイ騒いでいる(あるいは朝からぐったりしている)生徒たちにどう向き合うかといった実践面も含んでいる。

  しかし英語教師はまた、ハタと困るのである。それは、英語学習に対する動機も様々な生徒たちに週数時間という限られた条件で教えて、生徒たちの英語は役に立つものになるのか、という点である。これは経験をつんだ英語教師ほど実感として分かると思うのだが、英語教師として如何に研鑽を積み、授業をどんなに工夫しても、大部分の生徒の英語のレベルは悲しいぐらいに上がらないのである。もちろん努力家で勘のいい生徒もいるが私たちが相手にしているのはそんな生徒ばかりではない、いや、なんとなく英語は出来るようになりたいとは思っているが、はっきりとした目標もなくさして努力もしない生徒たちが大部分だといってもいいだろう。だいたい漢字もロクに知らないんだから、英語をやめてその時間を国語にあてるほうが生徒の将来のためになる、などとと思ったりもするのである。

  しかしそんな生徒たちに、英語が必要となるあるいは英語を再び学びたいと思う日が来るかもしれない。もちろん来ないかもしれないが、近年の社会情勢、国際情勢を見ればその可能性は年ごとに大きくなっていることは確かである。

  そして実はあなたの授業の成否の多くは、「その時」が来た時に、決まるのかもしれない。「その時」が来た時、あなたの授業を受けた生徒たちは、どう感じるだろう。とにかく授業が嫌で嫌でしょうがなかった思い出しかないと思うだろうか。それとも英語は出来るようにならなかったけど、やれば出来るような感じがすると思うだろうか。それとも結構英語は点が良かったけど辞書と首っ引きで逐語訳するやり方しか知らなくて、これからどうやって勉強したらいいか分からない、と思うだろうか。あなたの英語教師としての研鑽は、案外そういうところも現れるのである。

  さて、あなたのクラスの金太郎は「先生、英語って結構チョロイな。オラ本気でやったらきっと出来るだよ。」と言うだろうか?




News A復刻版CD-ROMを繰ること1時間、おもしろいESSAYSを見つけました。井川先生はおとぎ話にもくわしかったのです。大切なことが興味深く、やさしく、多少の皮肉やユーモアをまじえて語られています。(稲川)
News A復刻版のCD-ROMより記事を紹介します。(1991年4月号News A)



「金太郎と英語」

井川 好二

  足柄山の金太郎はなぜ英語を勉強するのだろう。あの浦島太郎は海辺の漁村に住んでいるのだから、浜や港で外国人と遭遇し、英語でコミュニケーションするチャンスは結構あるだろうし、現に亀の背中に乗せられて行った先の竜宮城では、ホームステイだったから日本語より英語を使う機会が多かったのに違いない。農村出身の桃太郎だって、海の向こうの鬼ヶ島へ、遠征に出掛ける位だから、外国語の一つや二つ習っていたとしても不思議はないし、鬼達が英語で無条件降伏を告げると云うのも別にそう突飛な空想とも思えない。

  ところが、いつも熊や狸や狐と相撲をとったり、お馬の稽古ばかりしている足柄山の金太郎は、なぜ英語をやらないといけないのだろうか。もちろん日本国民の一人として教育を受けるのは、当然の義務ではある。それに義務教育の中には外国語科目として英語が不可避的に含まれている。足柄山の豊かな自然の中で、動物と一緒にのびのびと育ち、一生山から降りる気配もない金太郎に、英語教育は本当に必要なのだろうか。

  金太郎が通う山国中学校足柄山分校にも、勿論英語の先生はいる。社会科と兼任だったりはするが、ちゃんとした大学出の熱血先生である。山村に特有の閉鎖性を持った土地柄ではあるが、いったん村民に受け入れられてしまえば、時々は大根やトマトの差し入れが届いたりして、結構のんびりと楽しい教員生活ではある。不足を云えば遊びに出るのがちょっと大変というところか。麓の町まで往復3時間以上というのは些かきつい。ところで、この足柄山分校に入学してくるのが、誰あろう我らが金太郎で、果たして彼に英語は必要なのだろうか。「先生、おら何で英語やるだ?」ときたもんだ。

  ここで先生が金太郎に云うことが3つ。まず英語ができると世界が広がる。例え足柄山で一生を終わるとしても、世界は一挙にグローバルの時代。分かるだろう金太郎、君の立っているこの足柄山は世界に繋がっているのだ。見上げる星たちは宇宙にひろがっているのだ。英語はそのグローバル化した世界での共通語なのだから、これが出来ると君も一人前の地球人だ。素晴らしいと思わんか。21世紀を支える君達が英語ぐらいできんでどうする。

  それに英語ができるとなんと云っても便利だ。高校入試や大学入試では英語は大事な教科だし、もっと出来るようになったら、PLAYBOYも原語で読めるし衛星放送のCNNだって下手な通訳なしで分かるし、映画だって字幕よまんでもいいんだぞ。新婚旅行でハワイに行ったって、ホテルのボーイ相手にペラペラ喋れば、嫁さんも惚れ直すと言うもんだ。趣味としても英語は最高。英語やっとるものはそれだけ頭使うからぼけんそうだから、死ぬまで現役のつもりで勉強すると良い。

  何と云っても英語はかっこいい。なんせアメリカやイギリスの言葉であるからして、こいつができるともう国際社会では彼らと対等。君は身体が大きいのだから言葉さえできれば欧米人に引け目を感じる必要はないんだ。海部総理と比べるとブッシュ大統領なんかかっこいいもんじゃないか。先生も若い頃はアメリカに留学したいと思ったもんだよ。向こうで暮らして帰ってくれば洋行帰りで、英語はペラペラでモテモテよ。とくりゃもうたまらんよ、そうは思わんか、なあ金太郎。

  先生がそこまで云っても肝心の金太郎は相変わらず、いまいちわからんと云う顔をして、「続、オラなんで英語やるの?」と来たもんだ。こうなったらこっちも開き直り、時間をかけて解からすしかない。「がんばれ、熱血先生!」そもそも英語教育は、異文化教育なんだ。いいか金太郎、よく聞け。日本には日本人しかいないから、日本語だけが言語と思いがちだけど、さにあらず。世界に目を向ければ英語、仏語、独語、中国語、韓国語など教えられん位いっぱいある。

  その中の一つ英語をやれば、日本語以外に「言葉」と言うものがごく当たり前に存在するし、それぞれの言葉の背後にはそれを使う人たちがいる。と云うことが身を持ってわかるようになる。そしてそこには社会があり文化がある。言葉は社会や文化の一部であると同時に、言葉が社会や文化を作ってきたとも云えるんだよ。金太郎。だから日本人にとって英語を勉強することは、外国の文化を学び、自国の文化を客観的に認識すると同時に、言葉とか文化とか社会とか云う概念を体験を通して学ぶ「異文化」学習の場だと言えるのだよ。

  金太郎はそれでもわかった風にも見えず、「再び、オラ・・・」と云う顔をしている。金太郎飴とはこのことか。さあ、ここで熱血先生としては最後の手段、アルファベットと行って見るか。「エイ!」と一声。金太郎もこの時ばかりはチッとは恐れ入ったか、先生の後ろから繰り返して「エイ!」いや今のは頂点が少し甘いと暫くは掛け合いが頻り。金太郎はやがて持ち前の大声を目一杯先生にぶつけ、「そうだその音、英語の音になってきたぞ、金太郎。」窓の外では熊や狸たちのアルファベットが夕焼け空にこだましている。

  熱血先生も金太郎も動物たちも、アルファベットをやった後では、心地よい疲労感に包まれすっかり仲良くなって、「お山の異文化理解」もしっかり進んだのであった。金太郎たちが帰ってから、さて問題はこれからだと熱血先生は考えるのであった。金太郎に英語は本当に必要なのだろうか?今はそう信じて、彼にそれをわからせる教育を気長に続けるしかないのだ。それが未来の日本を「真の国際社会」に導いていくために必要なプロセスなのだ。国民全員が英語をやる意味はそこにあるんだ。熱血先生はそう日記の今日の欄に書きながら、心のどこかで「やっぱり英語は浦島太郎や桃太郎たちだけにすれば良いんじゃないかな?」と云う疑問が湧いてくるのを禁じ得なかった。ふと見上げるとほの白い三日月が山の頂上に懸かっていた。(April 1991)




今年の冬合宿では多彩な顔ぶれのスピーチ発表で、楽しませてもらいました。東京、広島、大阪と様々な場所から集まり、それぞれ日頃は、お互いの生活を実際に垣間見ることはほとんどないのに、その人の生活感や、価値観がスピーチを通じて生き生きと伝わってきました。作る方も大変だったろうけれど、スピーチで自分を語ることでまた、新たな自分を発見できたのではないでしょうか。次回が楽しみです。さて、冬合宿で披露されたNews A復刻版のCD-ROMから、井川先生の稿。スピーチについてはっとさせられます。(稲川)
News A復刻版のCD-ROMより記事を紹介します。



「外見と中身」

井川 好二

  「外見」と「中身」のどちらが大事と聞かれれば、勿論外見と答えることにしてる。中身が外見を決定するにしても、外見が中身を決定するにしても、他人に見えるのは外見だけであり、中身を知っているのは本人だけであって、あるいは本人も知らないということも有り得て、Communicationにとっては外側に現れているものが全てだといえる。

  こんなに苦しんでいるのにちっとも解ってくれないとか、人間うわっつらじゃなくて中身で勝負とかいうのは、「甘え」あるいは、「甘い」のであって、本人に意識があろうがなかろうが、外側に現れているものがその人間の外見なのであり、それを外にいる人間が正しく観察できるかは別問題として、それがその個人が外界に向けて発しているINFOEMATIONの全てであり、それをどう解釈するかは本人以外の手に委ねられている。蓋し、解釈させ易くする努力ということはある。

  スピーチのことを考えてみると、5分なら5分の内に必要十分のことをいうために、何時間掛けて悩もうが、汗と涙の物語であろうと、心や頭で起こっていること、あるいは起こってしまったprocessは外見には現れず、ただ云いたいことが伝わるスピーチとそうでないスピーチがあるだけである。勿論窺い知るということはあって、それでスピーチ自体の評価が変わるというものではないが、外見の問題であると認識することが第一であって、いつまでも中身に拘泥しているとスピーチが見えない。

  薄っぺらでもかっこのよいスピーチが良いと云っているのではなくて、中身が薄っぺらであろうがなかろうが、スピーチには発表された外見しかない。その外見をよくするために中身を変える、心と頭を活性化すると云うことはあって、それが日頃の精進と云うものである。しかしそれも外見をよくすると云う考えがあってのことで、自己満足とは無縁と知らねばならない。

  口形のことを考えてみると問題はもっとはっきりして、正しい口形は正しい発音に繋がっている。中身の問題は無関係で、ただ口形ができているかいないかという外見があるだけである。言い訳は見苦しい。


  自分を変えることなしに、音が変わることはない。




「新学習指導要領のせいで週3時間で教科書をこなすのがたいへん。」中学の現場ではあちこちでそんな声が聞こえています。でもあせって短い時間に教科書の文法事項や、ボキャブラリーをつめこめば、ますます、生徒は授業にそっぽを向く。おかげでやっぱり、授業は思ったように進まない。 News A12月号の河野先生の言葉にもあるように「黒豆ばかりじゃ飽きてくる」のです。そこでちょっと気分を変えて英語でカルタなどどうでしょうか。詳しい、事を知りたい人はここから後を読んでください。(稲川)



「レッツ・エンジョイ・かるた!」

大阪企画 山田昌子

  お正月が近付いて来ると、幼い頃家族と楽しんだ「かるた」が思い出されます。段々成長し大きくなると、母が百人一首を出してきて、私と弟は意味もわからず字札と絵札をながめ、取り合ったものです。最近、私のクラスで日本の文化紹介の授業をした時、百人一首をテーマにした女子生徒達がいて、今の生徒にとってもかるたは健在だと思われました。

  私は時々、授業でかるた取りをします。はじめは「カタカナ英語かるた」。かるたの札にカタカナ英語、例えば "pajamas" や "bucket" などを書きます(印刷も可)。札に書いたカタカナ英語を学習した後、グループ毎(4〜6名)にかるたを配付します。読み手は、"panda" と言うだけでもいいですし、"Whenever I visit the zoo, I go to see pandas first." というような文でもいいと思います。生徒の状況やその授業の目的に合わせて行えばいいと思います。また段々高度にしていってもいいと思います。このような文を使ってかるた取りをすると、生徒は段々類推をするようになります。「先生、今 'zoo' って言わはったし、あっ、これ『パンダ』や」ってなものです。これは結構bottoms-upの力を育成するのにいいのではないかと思います。昔、私が中学で教鞭をとっていた時、かるたは中学生にも好評でした。この時は、フォニックスの授業の最後に実施しました。1度作っておくと、札を失わない限り半永久的に利用できるのが、長所だと思います。

  日本の文化紹介の授業の最初にも、かるた取りをしています。この場合は、かるたの札に日本語で言葉、また絵(例えば「お好み焼き」など)を書きます(印刷も可)。読み手は、例えばお好み焼きであれば、"This is a Japanese pizza. On the top there are various foods; beef, pork, squid, shrimp, etc. You can put anything you like on it." と言います。かるた取りで、リスニングをしてインプットをしておけば、後で英語を書かせたり話させたりする時、英語でどのように表現をしたらいいか、参考になるようです。

  現在は、AETと、@aglanceの写真を使ったかるた取りの準備をしています。来週、シンガポールへの海外研修旅行の事前準備として、リスニング活動としてかるたを利用します。マーライオン(yk104)、Greenview Secondary School(se039)だけでなく、物干し風景(se001)、MRT(電車)内のドリアン持ち込み禁止の表示(se044)、ドーサ(インド料理;@aglanceにはこれから登場する予定?の写真)、ペッパークラブ(マレー料理;yk148)もいれ、合計43枚使用し、例えば、"On the train people cannot eat, drop rubbish or carry the Durian fruit."と読みます。(さて、何でしょうか?)

  @aglanceの写真の絵札は名刺の大きさにしました。名刺作成用の用紙を購入し、「筆王」や「宛名職人」などの年賀状用ソフトウエア(名刺作成が可能)を利用すれば簡単に作成ができます。1度に10枚印刷が可能ですので、10グループの札が一度にできます。私は職員室の自分の机の上にプリンターを置き、授業に行く前にスイッチをいれ、印刷をしました。また採点をしながら印刷をしました。だからわざわざ時間を裂いて印刷をしたわけではありません。また、この絵札は小さいので、サムネイル写真の次に大きい写真(<例>se001s)をダウンロードし利用すればいいと思います。

  まだまだ工夫をすれば、様々なかるたの活動ができ、もっともっと楽しめ、英語のコミュニケーション活動に役立つのではないかと思います。みなさん、一度お試しください。また、面白いアイディアがあれば是非お知らせください。レッツ・エンジョイ・かるた!




学習者のやる気を育てる条件その8「教師になる。」「現場で学生に"ああ、この人は教師なんだ。"と思わせる事ができるかどうかが、ポイントなのです。」 (本文より)何年教壇に立っても、なお、毎日私達が試されていることです。忘れちゃ行けない教師の基本をあらためて思い出させてくれる井川先生の稿です。(稲川)
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「Motivationを考える:日本語教育の場合」

井川 好二

  最近、講演を頼まれることが多い。うまくいくこともあるし、そうでないこともある。先日、日本語学校の教員研修で講演をした。関西地区で外国人に日本語を教える先生100人以上がオーディエンスである。

  英語は何年も教えてきて、英語の先生には話をする機会も多いのだが、日本語教育の世界となると、素人も同然。よほど断ろうかと思ったが、世間のしがらみでそうもいかず、結局引き受けて、語学教育・学習一般の話をしてお茶を濁し、何とか面目は保ったが、講演後、参加者からの質問がたくさん寄せられた。以下、それへの回答を転載する。

  日本語と英語、外国人留学生と日本人中高生、教える言語も対象も異なるが、語学教師の悩みは共通のようである。

  ご質問の中で中心になっているのは、学生のやる気、つまり動機付けの問題であるように思います。どうしたら学生がやる気になるのか、ちゃんと宿題をやってくるのか、積極的に授業を受けるようになるのか、と言った学生のMotivationに関するご質問が多いわけです。

  講演の中でも申しましたが、Motivationは、2つのカテゴリーに分類できるといわれています。
(1)Extrinsic Motivation(外的動機付け)と(2)Intrinsic Motivation(内的動機付け)の2種類です。

(1)「外的動機付け」とは、例えば、日本語でコミュニケーションができるようになれば、一流企業に就職できる、とか、日本の大学に入学できるとか、試験で良い成績をとれば、親が小遣いをくれるとか、彼女とデートできるとか、言う外的要因の為に、勉学に励むと言う即物的な因果関係を指しています。
(2)「内的動機付け」とは、(1)のような即物的な因果関係がその場になくても、その学習をすることそのものが、学習者にとって「喜び」となっている場合、その学習活動自体がやる気の源泉となっている状態を指しています。

  一般的に言って、英語教育の現場でも、学習者の「外的動機付け」は減衰し、どうすれば「内的動機付け」を図ることができるかが、大きな課題となっています。この現象は、学習者、あるいはその両親の、経済的状態と関わりがあると言われています。つまり、経済が豊かになってくると、即物的なハングリーさがなくなるため、外的動機付けが働きにくくなると考えられます。

  それでは、「内的」に「外的」にしろ、教室で学習者の「動機付け」を図るためには、どうしたら良いのか?

  むろん、基本的には、これは、心の在り方の問題ですから、周りがどんなに頑張っても、本人がその気にならなければどうしようもないわけで、昔から言われているように、馬を水のあるところへ連れて行くことはできるが、喉が渇いていなければ、水を飲ませることはできないのです。

  しかし、教師や管理職が、学生がその気になるための「材料」および「環境」を、揃えることはできると言えるでしょう。以下、教育一般、語学教育、また企業人教育などの分野で、学習者のやる気を育てる条件としてあげられている事柄を纏めてみました。先生方のご参考になれば、幸いです。
  1.   教師のやる気は、学生に感染する。学生のやる気がないと言う前に、あなたのやる気はどうでしょう?教師のやる気満々は、学生に感染しますし、やる気のない先生のクラスではみんなやる気がありません。どんなにつまらない教科書でも、どんなに退屈なエクササイズでも、教師がいきいきと授業に臨めば、学生の眼も輝いてくるものです。
  2.   授業はパフォーマンス。あなたのやる気は、学生に見えていますか?私はやる気ですと言っても、その教師のやる気が学生に見えていない場合、結果は同じ。授業は先生のパフォーマンスでもあるのです。(学生のパフォーマンスでもありますが)やる気が見えるパフォーマンスを心掛けましょう。基本は、「明るい顔で、明るい声で、明るい話を」、教室に入る前に、この言葉を心の中で3回繰り返しましょう。
  3.   授業にバラエティを。一時間の授業の中に、いろいろな学習活動を盛り込むこと。読む、聞く、話す、書くと言う四技能の全てが、少しづつ、毎時間含まれている事が大切。もちろん、学生の四技能を過不足なく育てることが、授業の最終目標だからと言う理由もありますが、毎時間、学習者それぞれの得手不得手に対処し、彼等のやる気を維持すると言う意味が大きいのです。聞き取りが得意な学生、単語をたくさん知っている学生、文法が大好きな学生、おしゃべり上手な学生。いろいろな学生が、自分なりに得意だと思っている分野が、毎時間フィーチャーされているのが、理想でしょう。
  4.   ベテラン教師はレパートリーが広い。語学教師の目指すべきは、行列ができるラーメン屋さんではなく、必要なものが何でも揃うデパ地下です。いくら美味いラーメンでも、毎日毎日では飽きてしまいますが、デパ地下のテイクアウトなら、パスタから鰻重まで、造りたてのいろんな食べものを、その日の気分に合わせて楽しめます。むろん教室現場で日替わりメニューは必要ありませんが、時に応じて、違ったメニューが用意できるレパートリーの広さが、ベテラン教師の資質なのです。若い教師の、ひたすらエネルギーで押し切るような一時間も、迫力があってそれなりに良いものですが、持つべきものは、ベテランシェフの臨機応変。そのためには、日夜研究を怠らず、新しいことに挑戦し、失敗を恐れない精神を養うことが肝要です。
  5.   ゲーム感覚を刺激する。授業で行う学習活動には、ゲーム感覚が大切です。つまり、競争原理の導入。グループワークで早くできた順位、一定時間内にできたエクササイズの量、練習問題の正答率の高さ、など、個人別やチーム別に、結果を競う要素を、適度に加味すると、退屈なエクササイズが、意外な盛り上がりを見せるものです。もちろん、ゲームばっかりと言うのも困りもの。バラエティを忘れてはいけません。つまり、教室には、競争が好きな学生も、嫌いな学生もいるのです。
  6.   目的を説明する。少々難しい課題でも、それをやることに、どういう目的があるのかを理解できれば、学習者は「やりがい」を感じて頑張るものです。「やりがい」とは、自分の現在やっている学習活動が、(1)現在の自分にとって、どういう意味があるのか、また(2)将来の自分にとって、どういう意味があるのか、と言う2つの要素で構成されています。つまり、学習活動の短期的、長期的目的を、はっきりさせること。相手も大人ですから、ただ、この宿題をやってきなさい、このエクササイズをやりましょう、と言うだけではなく、何のためにそれをやるのかを、しっかり説明してあげることが、大切です。
  7.   クラスのルールを確立する。学期が始まって早い時期に、自分の授業でのルールを説明し、それを学生と一緒に確認し、教師と学生の約束事として確立すること。出席や遅刻のこと、宿題のこと、成績のことなど、あまり細かくする必要はありませんが、最低限のことをはっきりと線を引きましょう。朝一番の授業に出席するのが辛いのは、教師も学生も条件は同じですから、欠席や遅刻に対するペナルティーは当然。ちゃんと出席している学生の努力が報われるルールは、クラス全員が納得できるものでしょう。量や難易度が適切で、ちゃんと必要性を説明した宿題をやって来ないのも同様。大切なのは、本人も含めたクラスの学生全員が、最初にみんなで納得したルールに照らして、そうしたペナルティーが当然だと思えるクラスづくりです。年度や学期の変わり目が、ルールを確立するチャンスです。宿題に関して更に言えば、自分が出した宿題を忘れる教師は最低ですが、ちゃんとやってきた学生が報われる授業ができない教師もいかがなものか。やってきて良かったと思わせてあげて下さい。そうでなければ、宿題なんか出さなければ良いのです。
  8.   教師になる。教員養成のコースを修了して、学校に教師として採用されたからと言って、教師になれたわけではありません。教室で学生を相手に毎日文法を説明しているからと言って、教師であるとは限りません。教師の仕事は、学習者がなければ成り立ちません。そう言う意味で、学習者が自分のことを、教師と認めてくれて始めて正式に教師になれるものなのです。現場で学生に、「ああ、この人は先生なんだ」と思わせることができるかどうかが、ポイントなのです。何年やっても教師は毎日の授業が勝負。学歴や肩書きや社会的立場やネイティブ・スピーカーの優越を押し付けてみても、教室で学生との信頼関係が結べない教師は、ほんものの教師ではありません。では、どうすれば、学生に信頼される「ほんものの教師」になれるのか?(1)学生を信頼すること。信頼関係は一方通行では成り立ちません。(2)自分も学ぶ姿勢を忘れないこと。人に勉強しなさいと言う人間が勉強しないのは、いかがなものか。それに、自分が学ぶと言うことは、学生の立場をわすれないことにも通じています。だから、教師は生涯学習。(3)笑顔を忘れない。うまくいった授業を思い出して下さい。きっと笑顔がいっぱいの授業だったはず。私達教師が、「ほんものの教師」になることと、学生のMotivationの問題は密接に結びついているのです。
    (Saturday, October 5, 2002)
    参考文献:
  • Csikszentmihalyi, M. (1997). Intrinsic motivation and effective teaching: A flow analysis. In J. L. Bess (Ed.), Teaching well and liking it: Motivating faculty to teach effectively (pp. 72-89). Baltimore & London: The Johns Hopkins University Press.
  • Dornyei, Z. (2001). New themes and approaches in second language motivation research. Annual Review of Applied Linguistics, 21, 43-59.
  • Kennedy, C., & Kennedy, J. (1996). Teacher attitudes and change implementation. System, 24(3), 351-360.
  • McKeachie, W.J. (1997). Wanting to be a good teacher: What have we learned to date? In J. L. Bess (Ed.), Teaching well and liking it: Motivating faculty to teach effectively (pp. 19-36). Baltimore & London: The Johns Hopkins University Press.
  • Markee, N. (1997). Managing curricular innovation. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Richards, J.C. (1998). Beyond training. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Roberts, J. (1998). Language teacher education. London: Arnold.
  • Spolsky, B. (2000). Language motivation revisited. Applied Linguistics, 21(2), 151-169.
  • Williams, M., & Burden, R.L. (1997). Psychology for language teachers: A social constructivist approach. Cambridge: Cambridge University Press.
  • 中谷彰宏「超管理職」東京:PHP文庫





今年度のスタートにあたって支部長の佐藤さんがかかれた文です。少し時期的にずれてしまいましたが、初心に返って読んでください。(稲川)
東京支部の2002年度Voice of Tokyoより



「2002年度の初めに」

佐藤 由美子

  金木犀の香りがどこからともなく漂ってくる頃アクロス東京の新年度が始まリ、 ああ何時のまにか又1年経ってしまったんだなーと思う。

  いつの頃からだろうか、学校現場でも時がただただ慌しく過ぎていくようになってしまったのは。 教育とは、目先の事に捕われず、長い目で生徒を見る事だと肝に銘じていたはずだったのに、このスピードは何だろう。 私が歳を取ってしまったから世間のスピードについていけなくなってしまったのだろうか?
物を作ることと、人を育むことの間には厳然たる区別があったはずなのに、 いまや成果主義の理屈が学校のなかにもじわじわと浸透してきている。

  そんな中で、私たちは英語教師として一体何ができるのだろうか。 忙しい中で毎日精一杯教える。これはだれでもやっている事だ。肝心な事は「何を」「どう」教えるかということではないだろうか。 個性を育てる教育を目指すなら、教師も個性的で、魅力的でなくてはならないだろう。 同じ内容をマニュアル通りの教え方で教え、評価基準もあてはめて絶対評価です、なんて絶対おかしい。 こんな時だからこそ、教員の底力が真に問われているのではないだろうか。

  こう書いていながら、私にその力がついているとは思えない。 30年も教師をしていながら毎日の授業にまだ迷ったり、しょげたりしている自分が情けないと思うこともあるが、 「自分ができない教師だ」と常に自覚できるのは、アクロスで活動しているからだと思う。
  海外を含め色々な先生や学校に出会ったり、訓練をとおしてまだまだやれそうな事があれもある、これもあると分かるからこそ、 又1年自分の生徒とがんばってみようと思う。 自分1人では投げ出してしまいそうな事も、仲間とやれば楽しい事に変わる事もあり、 できなかったことが努力の積み重ねで出来るようになった!と思える瞬間もあるのだ。 そんな体験を教師自らがするからこそ、そういう喜びを生徒にも味わってもらいたい、ということが私の授業の核にもなっている。

  そういう訳で新年度を迎えたアクロス東京の活動は「金木犀のように可憐で密やかに」ではなく、 学校の忙しさに負けることなく、新しい仲間ともっともっと元気に大きくなりたいと思っている。




気がつくと自分もその店で、つがれたビールを飲みながら、昨日のことに思いをはせているようなそんな気持ちになる。交わされている会話もテンポがよくて心地よい。タイトルとは、全く違う雰囲気で話にひきこまれる。人の死にかかわってものを考えることは多いが、葬儀に参加する機会も年と共にふえ、なかば日常化してくる。こんな風に、その風景を切り取って言葉にしてもらうと、自分の中にまた、ちがった視点が生まれてくる。最後のメッセージも心にしみる。2002年10月号から井川先生の稿です。(稲川)
ACROSSTALK from JAPAN



「死生観」

井川 好二

  紺色の暖簾をくぐって中に入ると、黒い石の三和土に白木のカウンター。投げ入れの桔梗が、切ったばかりの瑞々しさである。

  流れているのはMJQ1 の“Autumn in New York”。 モダンな和風にクールなジャズが似合うと、誰が見つけたか知らないが、蓋し、卓見。

「あら、センセ、いらっしゃい」
「久しぶり」
「ホント。エライ人はお忙しいから、なかなか来てもらえへん」
「イヤミ云うてんと、ビール」

  鳥の子色の結城を着たママが、冷えたビールと小鹿田焼2 の小皿に入れた先付けを持ってくる。

「今日は、蝦芋3 の柚味噌かけです」
「蝦芋か、美味そうやな」
「けど、センセ、何や、ちょっとお疲れみたい?」
「分かるか?」
「そら」
「仕事もやけど、昨日葬式があってな。身体も気持ちも疲れてしもた」
「ご愁傷さまです。どなたが・・・?」

  今月の初め、母方の伯父が亡くなった。大正元年(1912)生まれで、享年90歳。大往生である。 母の身内では最年長で、親族の長老のような伯父であった。 阪神間に今も残る田園地帯にある伯父宅は、母の実家で、正月にはいつも家族揃って年賀に出掛ける。 「よう来た、よう来た」と、子供たちにお年玉。

  株や競馬が大好きで、入院中も競馬新聞を欠かさず、内緒でノミ屋に電話しては、勝った負けたと陽気な爺さんであった。 面倒見の良い伯父は、地区の厚生年金支部長を長年務めており、夏までは至極元気に、愛車のスーパー・カブに乗って、 集金に走り回っていた。7月に体調を崩し、入院して大腸癌と分かる。最後は肺炎を併発して瞑目。

  戦時中は、南方戦線へ出征。従軍したベトナムの旧サイゴンを懐かしがる。

「コージ、馬来へ行ったんか?」
「そうや。シンガポールも行ったけどな」
「儂も、戦時中におった西貢へな、いっぺん行きたい思てるんやがな・・・」

  今年の正月の会話であった。



  葬礼は、朝からのフルコース。都市化の著しい阪神間とは云え、まだまだ田圃や畑もある武庫川沿いの旧農村地帯。 新しくできたコンクリートの団地に分断されながら、今も旧家が並ぶ地域。 檀家である浄土真宗の寺であった葬式には、親戚50名、近所の年寄り150名が、曲がった腰に杖をついて参列。 焼香にも時間がかかる式ではあったが、白い顔をして棺桶の中に収まった伯父は、結構機嫌良さそうであった。

「棺桶って、重たいもんやってんな」
「そない云いますね」
「あれ、頭の方が重いんやで。脚フラフラして、格好悪かった」
「お疲れさまでした。お箸より重いもん、センセ、あきませんもんね」
「あほ」


  葬式には、男手が欠かせない。こういう時に息子や甥や婿の数が揃うのが、一門の誇り。黒い喪服の男たちが、 マフィアのように整列して、一般焼香の会葬者に、お礼のお辞儀を繰り返す。出棺時には、揃って棺桶を霊柩車まで運ぶ。 普段不義理な甥としては、ここでしっかりと思うが、期待される役割を果たすのは、しかし、疲れるものである。

  それに、寺での葬式で困るのは、畳に正座。「南無阿弥陀仏」の連呼から延々と続く読経に、慣れない足に痺れが広がる。 僧侶のパフォーマンスにも、上手下手があるようで、三人並んだ金襴の後ろ姿、左端の若い坊主の低音には、 些か有難味が感じらないこともないが、故人とも親しかったと聞く真ん中に座った住職の読経は、頂けない。 声に張りがなく、深みが足りない。読まれる経典の意味など、どうせ誰にも分からないのだから、 せめて音として聞き応えがあって欲しいもの。心に届く声が聞きたいもの。 代わってやろうかと、不謹慎なことを思っているうちに、罰が当たったのか、足の痺れは極限に達する。

「お酒にしますか?」
「そやなあ」
「そしたら、いつもの八海山で」
「うん。けど、下手なお経は、要らんなあ」
「まあ」
「あれじゃ、成仏でけへんやろ」
「また、そんな悪いこと云うたはる」
「そら、坊主かて教師と一緒で、パフォーマンスが勝負や。エエのもアカンのもいてる」
「罰当たりますよ」
「俺の時には、要らんなあ」

  拡張工事のために、コンクリート・ミキサーやダンプカーで混み合った市営火葬場に、マイクロバスで到着する。 工場のように清潔で無味乾燥な屋内。白い棺桶をボイラーに入れて、青い作業服を着た職員が、ガチャンと扉を閉めれば、野辺送りは完了。 二時間半後にお越し下さい。親戚一同は、精進明けの会場へと、またマイクロバス。

  葬式では、普段会わない親戚にたくさん会うものである。 結婚式は、予算と先方の都合に合わせて、参列者の人数がコントロールされるものだし、 最近では、式も披露宴も海外でと云うのが増えて、親戚が一堂に会することは少ない。

  普段不義理で、人見知りな甥としては、この爺さん、あの婆さん、知らない顔が多い。 いちいち自己紹介するのも鬱陶しく、黙ってビールばかり飲んでいた。 少し離れた柱に凭れて、80歳になった故人の弟が、目頭をハンカチで押さえては、一人ブツブツ言う声が聞こえる。

「俺の葬式はどうしよう?」
「センセは、派手なんがお好きやから」
「カラオケ葬か?」
「また、そんなこと・・・」
「みんなで、賑やかにやってもうたらええ」

  吉川英治4 によると、「風林火山」の武田信玄に対する、越後の上杉謙信の座右銘は、

死中、生あり。
生中、生なし。

  死への覚悟があってこそ、真に生きることでき、生に溺れる時、死が訪れる。死を見つめて生きよ。 ラテン語では、“memento mori”「死を想え」。

  飲み過ぎの頭を抱えて、マイクロに乗り、再び焼き場へ行き、骨上げ。 「きれいな骨になって」と、箸で拾った喉仏を見て、85歳で未亡人になった伯母が言う。 生きているうちが華だとは思うが、死んでから、骨がきれいと云われるのも、また良いか。

「来てくれるやろな、俺の葬式」
「ええ、そら行かしてもらいますけど・・・」
「けど、何や?」
「センセの方が、長生きしはりそうな気がして」
「あんたの方が、ずっと若いのに?」
「美人薄命って云うやないですか。それに、センセは、憎まれっ子やから・・・」
「ほっとけ!」

  もの想う秋に、死に思いを馳せ、今を大切に生きよと、死んだ伯父が教えてくれた。(Saturday, October 12, 2002)


1Modern Jazz Quartet: n. モダンジャズカルテット [米国の黒人ジャズグループ (1952-74); ピアノ・ベース・ドラムス・ヴァイブラフォーンの 4 人組で, Bach などのクラシック音楽をアレンジした曲目の演奏で知られた; 略称 MJQ]. [株式会社研究社 リーダーズ+プラスV2]    文章に戻る

2小鹿田焼き[おんたやき]  大分県日田市源栄町で焼かれる陶器。江戸時代中期よりの伝統を守る李朝系登り窯。代表的な技法として、飛びかんな・刷毛目・櫛描き・打ち掛け・流しなど。柳宗悦、バーナード・リーチなどが絶賛。国の重要無形文化財。ホームページによる解説    文章に戻る

3えびいも 安永年間(1772-1781)に青蓮院宮が,長崎の土産に持ち帰った里芋の種を栽培したところ大型で良質の芋ができ,曲った紡錐形で表皮に黒い横縞があり,その形や模様が,えびに似ているのでえびいもと名づけられたといわれる。いもの肉質は粉質で粘り気に富み,よくしまり風味も極めて優れている。ホームページによる解説    文章に戻る

4吉川英治(1989)「上杉謙信」東京:講談社    文章に戻る





肩の力が抜けていておしつけがましくない。なんだか普通っぽい話なのに、最後はそうだなあ、がんばらなくっちゃと思わされてしまいます。あんまり自信がなくてどっかでつまずいて出遅れている生徒の気持ちを、前へ向けるのもきっとうまいんじゃないでしょうか、辻先生は。
2002年9月8日発行のNews Aから今回は辻先生の稿を紹介します。(稲川)




「動機が不純」

辻 荘一

  「辻君、あなた何で教師になったの?」

  と、昔ACROSSの原型となった南大阪発音研究会(後に発音研究会)の開祖、中津燎子先生は上本町の喫茶店で、 いつもヘラヘラしている私に聞いてきたことがあります。

  当時、教師になりたてだった私はこの問いにうまく答えることができず、「いやー、そうですねー、何となくかなあ」などと、 なんだかよく分からない情けない返事をして、「どうしてそんなことを聞くんですか?」と逆に尋ねました。 中津先生の答えは「辻君は、全然教師らしくないからねえ」というものでした。

  その後も、「なぜ教師になったのか」を時折聞かれることもありましたが、 いつも私の答えは「他の就職先がいやだったから」とか「企業の就職試験に落ちたから」などと、 ウソではないけれど聞いている人の期待には沿わないものばかりでした。

  「なぜ教師になったのか」と聞く人たちは、きっと「小学校の時の先生が素敵で」とか 「高校時代に先生が不良になりかけた自分を救ってくれた」とか、そこまでドラマチックではなくても、 教師であることに夢を持つ動機を期待しているのでしょう。しかし残念ながら私には そんなドラマチックなエピソードがないことはもちろん、教師という職業にそれほど期待や夢があったわけでもありません。 立派な動機が必要だと言う人があったわけではないんですが、そういう自分になんだか引け目を感じていました。

  また、私には原体験というものもありません。死ぬような事故にあって人生観が変わったとか、 若い頃両親を亡くして苦労したとか、学生運動で燃えるような青春時代をすごしたとか、人生の転機となったエピソードや、 その後の生き方を決定づける経験というものもなく、なんだか自分の人生が原体験がある人に比べて ノッペリしていてつまらないように感じていました。はっきりそう言う人がいたわけではないんですが、 特に若い頃はそんな風に感じることが多かったように思います。

  そんなナイーブな私でしたが、時が流れ人生も半ばを過ぎて初めて、「動機」とか「原体験」とか、 そんなものがあろうがなかろうが大した問題ではない、どうでもいいことだと思うようになりました。当たり前といえば、 当たり前の結論なんですが、理屈だけでなく実感として自分の中にあることを最近発見したのです。

  教師である私にとって、その動機がなんであろうと、自分の教師としての価値には無関係です。 いくら感動的なエピソードがきっかけで教師になろうと、その後の研鑽を怠って、 その感動的なエピソードが唯一の雑談ネタのつまらない教師に成り下がることだってあります。 また、いわゆるデモシカ教師でも、いい教師になるチャンスや時はいくらでもあります。

  さらに言えば、生徒を愛しているか、教えることが好きか、あるいはまわりから良い教師だと言われるかどうかも、 どうでもいいことです。良い教師であるかどうかの基準は、その教師の状態ではなく行動にあるはずです。 いくら生徒を愛していても、その愛情が伝わるかどうかは分かりませんし、その愛情故に間違った行動をとるかもしれません。 教えることが好きでも、教えるのが下手だったり、周りから良い教師だと言われていても、禄でもない教師はいます。

  そして立派な教師になる必要もありません。その場面場面で、 あたかも自分が立派な教師であるかのような行動がとれればいいのです。そして、なにが「立派」のかを知り、 「立派な教師の行動」を実現するためには、努力が必要です。結局、自分が教師になった動機は何かとか、 自分は生徒を愛しているかなどと考える暇があるなら、研鑽を積み、視野を広げ、技術を磨くべきなのです。

  動機が不純で生徒を愛せない教師の皆さん、あなたは感動的なエピソードを持ち教師であることに夢を持って 教師になった教師達と同じだけ立派な教師になる可能性があります。がんばりましょう。





アクロスの機関紙News A(毎月、第2日曜日発行)より抜粋して載せています。
2002.News A 5月号より
ACROSSTALK from JAPAN



「椰子の木に霧が降る:あるいは、南国考」

井川 好二

  島の夕暮れは、霧雨である。雨の細かい粒子が、あたりを包みこむように降る。 ホテルの芝生からヨットハーバーに向かうあたり、海岸線に沿って植えられた椰子の木が、ちょっと寂し気に見える。

  がらんとしたメイン・ダイニングのテーブルに、客も疎らである。従業員もいささか手持ちぶさた。 初夏だというのに、この霧雨で季節はずれのメランコリー、静かに陽が暮れていく。

「けむってるね」
「はい、ただ今の季節には、霧がよく出まして」
「ふ〜ん」
「晴れてますと、福岡市内がきれい見えるんですが」
「けど、霧もなかなかエエもんや」
「恐れ入ります」

  博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)にある、海の見えるホテルである。 案内されて窓際のテーブルに座ると、ビル・エヴァンズのピアノが流れてくる。ちなみに、志賀島とは、 福岡県東区に属する博多湾の島。海の中道とよばれる砂嘴の先端に位置する。筑前国糟屋郡や那珂郡に属した。 1784(天明4)〈漢委奴国王〉の金印が発見された。万葉集には志賀の海人を詠んだ歌が多く,海人は漁撈のほか,製塩や航海に携わっていた。 [株式会社岩波書店 『岩波日本史辞典』]

  霧雨に包まれた椰子の並木を見ていると、気分はすっかりオフ・シーズンのシーサイド・リゾート。 漢委奴国王も金印もない。卑弥呼もこのあたりにいたのかも知れないが、思い出しもしない。 もっと下れば13世紀、博多湾は2度も、夥しい元の軍船に覆い尽くされたはず。 しかし、霧に巻かれた椰子の木が思い出させるものは、最近訪れたマレーシアのジョホール・バル。 狭い海峡の向こう、雨に濡れていたのは、シンガポールの高層街だった。

「お飲物は如何致しましょう?」
「メインはシーフードやけど…」
「シャルドネを持って参りましょうか?」
「いや、やっぱり赤にしよ。カルベネを」
「かしこまりました」

  南の国で生まれたわけではないし、少年期を南国で過ごした経験もないのだが、どうやら自分は「南国育ち」なのである。 いや、そうに違いないと思い込んでいる。あのバリ島はデンパサールの空港に降り立ち、熱気と湿気がモワッーと身体に迫ってくると、 とても懐かしい気がして、こりゃあやっぱり故郷だ、と思ってしまう。 しかし、その根拠はときかれても、前世の因縁か、DNA の記憶だと、真顔で答える他はないのだ。

  象が散歩するチェンマイの街並みも懐かしい。それに、スパイスの効いた食べ物が旨いと思えるのも、「南国育ち」の故かも知れなくて、 チェンマイで食べるトムヤンクムは、また格別な気がする。

  ここで慌てて付け加えれば、「南国」と云うのは、熱帯または亜熱帯に属する漠然としたアジア・太平洋地域を指すのであって、 特にインドネシアとかタイとかマレーシアに限定されるわけではない。そして、その南国へ行くと、故郷に帰ったように懐かしい。

  と云って、インドや中東にはまだ足を踏み入れたことがないので、具体的な「故郷」の記憶としては、 東アジアから東南アジア・太平洋にかけての熱帯・亜熱帯地域に限定される。こうした地域の指定が、 しかし、先の大戦時における「大東亜共栄圏」に類似しているのは、もちろん単なる偶然にすぎない。

  しかし、その「故郷」と云う概念そのものは、自分には、それほど実感のあるものではない。 幼い頃から父親の勤めの関係で、関西を中心にあちこちと家を替わった。生まれてすぐは、阪急神戸線沿線の武庫之荘、 次に大阪市内の帝塚山。少し大きくなって、広島市の白島へと移り、小学4年で大阪のミナミは鰻谷。 それから堺の浜寺へ変わり、最後は現在も住んでいる宝塚。結婚したばかりの一時期、豊中市の蛍ヶ池にいたこともある。 しかし、そのどこにも特別の感情があるわけでもない。

  つまり、私には厳密な意味での故郷がない。私の中には、幼なじみの近所の○○ちゃんに会えたり、 年老いた父母が待っていたりする土地、と云う意味での、あぁ、だから、つまり、「上野発の夜行列車」的と云うか、 「兔追いし」的と云うか、そう云った意味での「故郷」と云うものが、ないのである。

  具体的な実態を伴った故郷を持たない私の場合、「実態を伴った故郷を持つ人たち」を、羨ましいとも思うのである。 そうなると、その南国が故郷だと云うのも、ずいぶんと心細い話だが、まあ、しかし、そんな気持ちがすることに間違いない。

  古代、日本人が形成されるプロセスの中で、この日本列島へ移り住んできた民族に2系統あったと云われる。 フィリピン・台湾・沖縄と島伝いにやって来た南方派と、中国、朝鮮半島、沿海州などからやって来た北方派、である。 しかし、私の場合はどうやら南方派の子孫であるらしい。「大東亜共栄圏」は偶然であっても、この「南方派説」には、 ある程度実感がある。

  あるいは、そこまで歴史を遡らなくても良いのかも知れない。 室町時代、博多は、明・朝鮮・琉球・東南アジアなどとの貿易で繁栄した港町、つまり当時有数の国際貿易港であった。 また、16世紀後半から17世紀初頭にかけても、東南アジアに乗り出した日本人は多く、各地に日本町が作られた。 ちなみに、「日本町」とは、

  東南アジア各地の日本人居留地。1617(元和3)以降,朱印船は東京トンキン・交趾コーチ・柬埔寨カンボジア・暹羅シャム・呂宋ルソン・ 高砂に渡航,その地との交易が活発になると日本人の貿易関係者が在留し日本町が発達した。[株式会社岩波書店 『岩波日本史辞典』]

  私の祖先に、この時代に南方と日本を往復して商売をしていた人がいたとしても、不思議はないのである。 それに、福岡在住の歴史小説家、白石一郎によると、鎖国期の江戸時代、漂流して東南アジアまで行った船乗りも多くあったらしい。 その後、何年間かを現地で過ごし、苦労を重ね、厳しい鎖国の網をかいくぐって日本へ帰り着いたものもあったらしい。 私の血の中には、そうした漂流者の血が混じっているのかも知れない。

「食後のお飲物は、如何致しましょう?」
「ええっと、この熟成物のシェリーを飲んでみようかな」
「かしこまりました」

  運ばれてきた芳醇なシェリーを飲みながら、海に向かって大きく開かれた窓の外に眼をやると、霧の向こうに、福岡の街の明かりが、 ぼんやりと霞んで見える。霧が少しはれてきたのだろう。しかし、我が心の南方は、遙か彼方。(Saturday, May 11, 2002)





OSとSoftwareの親和性について

辻 荘一


  21世紀と言えば鉄腕アトムの時代だが、アトムのようにまるで人間のように考え行動するロボットは、 少なくとも近い未来にはとても作れそうもないことが、より技術が進歩するに連れて逆にはっきり分かるようになった。 だから人間をコンピュータのアナロジーで語るのは、あまり正確とは言えないのだが、面白いので独断と偏見でやってみることにする。

  コンピュータはハードウェア(機械部分)とOS(WindowsやMac OS)とソフトウェア(Word, Excel, Outlook Expressなど)でできている。 ハードウェアにはCPU(中央演算装置)、RAM(一時記憶装置)、これにハードディスク、キーボード、マウス、モニタなどがある。 CPUは脳の考える力、RAMは脳の一時記憶能力、キーボード・マウスは手足、モニタは顔である。 ハードディスクは実は人間の体ではなく本棚というところ。仕事をする時はCPUとRAM(脳)で考え、 ハードディスク(本棚)の資料を使いながらキーボード・マウス(手足)で行動する。そしてモニタ(顔) を見ればなにを考えているか分かるのである。

  OSは人間の基本的行動様式や性格、ソフトウェアは能力や技術である。私はみなさんご存知のようなハードウェア(体)を持ち、 Tsuji OS(version 47.0)の上に、日本語、英語、カラオケなどのソフトがインストールしてあるわけだ。 Tsuji OS(version 47.0)は大変優れたOSなのだが、自分勝手でひとの言うことを聞かないというバグがあるのが欠点である。

  さてACROSSは教師のための研修を提供する団体であるが、ACROSSで研修をするということは、 コンピュータのアナロジーで言えば、新しいソフトをインストールする、あるいは最新版にバージョンアップするということになる。 皆さんは英語や発音といったソフトを大学でインストールされたはずであるが、ソフトが古くなってしまったり、 あまり良くないソフトが入っていたりするのでACROSSでソフトの入れ替えやバージョンアップをしようとしているのである。 おおかたの場合大学でインストールしたソフトは、特に発音ソフトの場合、ロクでもない物が多く、 古いソフトが新しいソフトを邪魔したりするので初級訓練の段階で一度削除してから再インストールしなければならない。 (もっとも良いソフトでもインストールせずにハードディスクにコピーしただけ、つまり本を買っただけという場合もあるが) ロクでもないソフトでも愛着があったりすると、削除がうまく行かない。 その結果新しいソフトが入らなかったり不完全なインストールになったりするのでチェックに通らなかったりするのである。

  初級段階の発音ソフトや中級のリーディングソフトは大部分のOSと親和性があるのだが、ドラマやスピーチになると、 OSによってはまったくインストールできないことになる。 例えば極端な恥ずかしがりのOSや自分を開くことが出来ないタイプのOSだとドラマやスピーチのソフトはインストールしづらい。 つまりインストールされるソフト(能力・技術)はOS(行動様式・性格)を選ぶのである。私を例に引けば私には 「ひとの言うことを聞かない」Tsuji OS(version 47.0)がプリインストールされているために、 英語ソフトの中でもリスニングに優れたタイプはインストールできないのである。 つまり英語のリスニングがいつまでも不得意なのはCPUのせいだけではないのである。 ただACROSSは「これはあなたには無理」とは言わない方針なので中級から上級にかけてはソフト(能力・技術)の インストールだけでなくOS(行動様式・性格)などの修正やバージョンアップをせざるを得ないことになる。 そしてコレがなかなか難しいのはご存知の通り。うまく行かない原因をソフトだけに求めて、 OSに目がいかないと、堂々巡りを繰り返すことになる。また、コンピュータと違って人間の場合、 OSの新規インストールや入れ替えは出来ないのでソフトをインストールしながら少しずつ修正するというやり方になる。 私もTsuji OSversion 47.1(リスニングソフトとの不具合を解消しました。 version 47.0の正規ユーザは無料でダウンロードできます)が発表されれば、リスニングが飛躍的に伸びるハズである。

  ACROSSでインストールしようとしているソフト(能力・技術)は20年以上の時を経たお墨付きの優れものである。 しかし、「ソフトはOSを選ぶ」あるいはその逆ということに気づかず、OSの修正やバージョンアップをやろうとしないで ソフトだけを強引にインストールしようとすると、いつまでたっても卒業できないと言うことになるのである。(2002.6月号より)





「本読みテスト」のすすめ
 
河野 良子


  1年生の英語の授業で、本読みのテストをしている。うちの学校は、どこに出しても恥ずかしくない、学習困難校である。 しかし、本読みテストは、全員前に出て最後まで読む。声もかなり出る。2学期にもやって、今回は2回目。 1学期には照れて、クフクフしていた子もいたが、そういう子はほとんどいなくなった。 逆に、堂々と読む友達にたいして、自然に拍手が出る場面が出てきた。

  全員最後まで読む…と書いたが、もちろん、最後まで読めるようにしてからテストをする。 え? どうやって?!と思った方に、秘技をお教えしましょう。カナをふらせます。 今、呆れました?英語教師のプライドはないのかッ!ですか?プライドは他の所にある…ってことはおいといて…。 みんなの前で読めと言う以上、その経験を、子どもにとってのマイナスにしたくない。 学習に自信のない子どもは、みんなの前で本を読んでみて、読めなければ、また自信をなくす。 子ども自身が、それを分かっているから、カッコつけたり、ふざけたり、それもできない子は、 消え入るような声で読んで『やっぱり私はダメだ』という思いを一つ増やす。

  だから、テストの時に、ある程度スラスラ読めるように、「読めない単語は、友達に聞いて、カナをふれ〜!」と言う。 これも、授業中に時間を確保する。自分の時間を使って、英語の教科書を開く、なんてことを期待するのは、 生徒理解に欠けるというものである。「ゼイ アー(They are)。おまえ、それは『ザ』やろ。 それは『ビ』や。」「え?『ゼ』ってどう書くんやったっけ?」と、何の時間だかわからない…。

  テストは自分の教科書を見て読む。そこに何を書いていてもよい。全編カナをふっている者もいるし、 強く読む単語に印を付けている者もいる。thやfを蛍光マーカーで光らせている子は、 こういう音を出そうとするし、like itをつないでいる子は、ここをライキットと読む。

態度点という評価項目がある。「準備ができたら礼して、読み終わったら礼な。礼から礼までが、態度点の時間。 礼するまでは『緊張するって〜』とか言うてもええし、礼が終わったら『うわ!間違えたぁ〜!』て叫んでもええけど、 この間だけはがんばれ、聞く方もやで。」ということになっている。教卓の前に立った子が礼をすると、 教室中がシーンとする。評価の項目は、態度・声の大きさ・読み・リズム・音で、評価は必ず返す。 生徒同士も採点するが、生徒の項目は、後ろ3つを「英語」としてある。

    カナをふらせることを勧めるものではない。カナをふるな!と言うならば、カナなしで読めるようにしてやらないといけないよ、 と言いたい。それがなく、ただ、カナはいけないという『カタチ』に教員が捕らわれて、テストでふざけたり、 声が出なかったりする子どもを『やっぱり、こいつらはダメだ』と思うのは違うでしょう。

  教員がすでに持っているかたちに、生徒をはめるのではなく、その時々の生徒に合うかたちを作るのが、教員の仕事かな、 と思う今日この頃である。作るべきかたちは、生徒を見ることで、見えてくる…見損ないも多いけどね。 見損なうのは教員であって、生徒の責任ではありません。

  最後になりましたが、CMタイム。本読みテストの出来具合は、日頃、教科書を読む時の、教員の声や読み方が大きく影響する。 その声や読み方については、アクロスでの訓練をお薦めします。(2002.News A 4月号より)


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